簡野道明は伊予吉田の偉人  2

生立ち/小学時代

  簡野道明は慶応元年(1865)、伊予吉田藩の江戸上屋敷、南八丁堀で生まれた。幼名を米次郎といった。父は、吉田藩士の簡野義任で江戸定府の士だった。明治2年、米次郎五歳の時、版籍奉還で一家は江戸を引き払って吉田へ帰った。

 菅野家のルーツは陸前本吉の簡野浜で、伊達政宗の長男・秀宗の宇和島10万石入部に従って宇和島に移住したと思われる。政宗は西下する息子秀宗に選りすぐりの武将57騎を与えたが、57騎に簡野の名は無いので、その関係者であろう。

 秀宗の子・宗純が吉田に分知した折、菅野家も吉田に移り10数代目が道明の祖父吟右衛門である。

 吉田に帰郷した一家は、今の吉田高校の辺りにあった御厩奥の長屋に住んだ。ここには旧藩士が軒を並べて住んでいた。幼少の道明は、狩谷掖斎(江戸後期の国学者)に私淑する父に、本の読み方、習字を習った。

**狩谷掖斎の歌「文字の関まだ越えやらぬ旅人は道の奥をばいかで知るべき」** 

  明治6年學令発布で小学校が設立され、8歳になった道明は小学校に入学した。

 大正10年に発行された甲斐順宜著の「落葉のはきよせ」には(小學設立に就き教官は漢学の大先生にて湯川寛斎・山下興作・三瀬貞幹の三名士、何れも劣らず学徳兼備の堅者云々)とあり、甲斐順宜が受け持った生徒は11歳より14歳までの50人で、記憶する者の中に、簡野道明や法華津孝治、戸田友士、遠山成道らがいたという。

 因みに甲斐順宜先生の月給は3円だったが、明治7年先生を辞め東宇和郡の学区取締で野村、魚成の各校を開設した。

 道明の通った小学校は、藩の旧御殿、戸平門長屋をそのまま使い、非常に程度の高い授業だったようで、唐の「唐詩選」「三体詩」を読み、漢詩を作った。毎月一度テストがあったが、道明はいつも一番であった。11歳の時、小学校の教師をしていた父が、急用で出張したが、そこで道明が代わって教壇に立った。何と父よりも教え方がうまいと評判になった。

 その頃、道明が中心となって頼山陽の「日本外史」の輪読会を開いていたというから、どれだけ頭脳明晰な少年だったのだろう。

 14歳の時に、課外塾で漢学、数学等を勉強したが、教師に森蘭谷先生と兵頭文斎先生がいたが、漢詩を作るようになったのは兵頭文斎の影響が大であった。

**兵頭文斎とは…吉田藩勘定奉行取締、学館訓導などを歴任、詩文や書に長じていた。吉田藩の碩学。清「東瀛詩選」にも選録さる詩人。(名古屋大学教授・加藤国安氏の講演より)**

 江戸に定住して藩主に仕える者を「定府」といったそうだが、道明の先祖は吉田陣屋町を離れ、江戸に常駐した家臣だったのか。版籍奉還でどの藩主も東京に移住し、その家臣も共に上京する中、藩の無くなった吉田に帰るということは、父・義任に郷里で教員などの職業に就く道があったのであろうか。

何れにしても「吉田三傑」が活躍した明治期に、簡野道明も学問の道で花開くのである。

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宇和島市簡野道明記念吉田図書館・ブロガー撮影)