伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし     (餅つき)

餅つきジュラ紀前より引用) 

 暮が近づくと、あっちかもこっちからも正月の餅をつく音がぺッタン、ぺッタンと響いた。年末の恒例作業である。隣りに負けないようにたくさんつこうぜと競い合った。

 蒸篭や臼、杵、木箱、ざるなど一通りの道具・器具を洗ったり、あんこ作りやら何やらと数日間の準備作業も結構いろいろやらねばならない。もちろん餅つき当日は朝早くから夜遅くまで掛かった。

 餅米を蒸篭で蒸し杵でつき、つき上がったものを鏡餅にしたり小判に丸めたり、あんこ餅にしたりした。かき餅やあられ用には平たく伸して固め、1、2日置いてほどよく硬くなったところで切る。

f:id:oogatasen:20190217184856p:plain

 ヨモギ餅、粟餅、キビ餅も彩りとそれぞれ独特の香りの競演でもり立ててくれた。最近は粟餅、キビ餅と疎遠になっているが懷かしい味と香りである。

地域独特のものであったかもしれないが、イモの餅というのもあった。

 サツマイモを角切りにしてもち米と混ぜて一緒に蒸し、それを杵でついたものである。イモの香りとあまみが出て、少し菓子っぽい柔らかな餅になる。ついでながら正月の餅は別に普段おやつ替わりに食べたもので、やはりイモの餅というもう一つ別のものがあった。これは前述の粉ひきのところで紹介した。

サツマイモでんぷんを水で捏ねて蒸したものである。サツマイモの味と、むちっとした歯ごたえが独特であった。おそらく今でも一つ二つ食べるとおいしいに違いない。実際に当初はおいしいおいしいと食べた。しかし米不足を補うため、いつのまにかふかしイモとイモの餅が毎日、毎日続くようになったから、またか!となつてしまつた。終戦直後の一時期以降、お目に掛かっていないのはそのせいであろう。久しぶりに食べてみたい気もする。

 餅つきの話に戻る。

 小判に丸めた餅は座敷いっぱいに広げた藁むしろの上に、ずらっと並べて形が納まるのを待つ。1、2日広げておいた後、平らな木箱に詰めて木箱を積み上げる。正月の三元日のお雑煮はもちろん、しばらくは餅尽くしになった。

やがてカビを取ったり、カチンカチンになったものを、柔らかさを取り戻すために漬物みたいに水桶に漬けたり、いろいろと工夫して始末しなければならなくなる。当然飽きもくるわけであるが、餅好きな家族であった。根気よく平らげた。

 寒い日には火鉢を取り囲んで餅を焼き、焼けた餅に砂糖醤油を付けて食べる。醤油の香りと砂糖の甘さが餅によく合った。また焼くときプクーンと膨らむのが愛嬌たっぷりで、キヤッ、キヤッと喜んだ。箸で突くとプスッ、ふにやーとしぼむのがまた面白い。

 五つ六つのころには三元日の雑煮餅を競争で食べた。兄や姉に負けまいと一生懸命食べた。忘れもしない、一度に七つ八つと食べて兄姉をしのいで誉められるのがうれしかった。兄姉も、おだててたくさん食べさせてやろうと弟に花を持たせてくれた。

 小判餅といっても今の四つが昔の二つか三つではなかったろうか。10歳前後以降は、少年期、青年期と成長につれてむしろ数は落ちる一方である。食材の種類、量が増えていった時代背景のせいもあるかもしれないが、幼少年児の胃袋の柔軟性には恐れ入る。

 餅つきには店の合間に父も加わるが主に青少年期の兄弟でついた。母と姉妹が餅米を洗ったり蒸したり、つき上がったものを丸めたりする方を担当し、杵を振るう方は男の受け持ちである。

 二人で臼を中心にして向かい合い、蒸したての熱いものを最初は杵で捏ねる。ある程度粒がつぶれて粘りが出てきてからぺッタン、ぺッタンとつく。捏ねを省略していきなり杵を振り上げたりすると見事に飛び散ってしまう。捏ねは熱いうちに、できるだけ素早くやらなければならない。つくのは粘りが出て一塊になりだしてからである。捏ねの段階の方が、どうしてどうしてなかなか力とこつを要した。

向かい合った二人が杵を交差させ、擦り合わせるようにして捏ねる。あら、よ! おら、よ!と、掛け声勇ましく、「なんだもう息が上がったのか」

「なにお、まだまだ」と兄に挑戦とばかり踏ん張った。パサパサとしていた米粒が互いにくっついて一塊になってくると、今度は杵を振り上げてぺッタンぺッタンとつく。いわばよりきめ細かくなるように丁寧に仕上げる。これもどちらがいい音が出るか競い合いながら、大上段から交互に振り下ろす。兄の巧みな誘導に乗せられて一生懸命ついた。

 今から考えると当時の都会ではいざ知らず、粉ひきから餅つきなど、まだまだ田舎では自製が多い時代であった。労力ももちろんであるが道具がそれなりに要る。これらの道具が全部揃っていたということは、それらが収納される場所がそれなりに用意されていたということになる。そんなに大きな家ではなかったし、いったいどう工夫されていたのだろう。建て替えられて古い家の設計の細部を忘れてしまったのは残念である。

昔はいずこの家でも屋根裏や床下など、無駄なくうまく利用していた。たとえば階段の段一つ一つが横に引き出す引出しになっていたりした。部屋と部屋の間仕切りは主にふすまや障子であったことは、ドアと違い空間の利用という面から大変合理的である。

(以下略)