簡野道明は伊予吉田の偉人  5

心血を注いだ『字源』を刊行

 

 道明が勤めた東京女子師範学校は、1949年「お茶の水女子大学」に改称された。国立の女子大学は、同校と奈良女子大学の2校のみである。

 お茶の水女子大デジタルアーカイブズに、道明の写真が残っているので引用させて頂く。

 明治36年国語体操専修科の卒業記念写真、道明は漢文の授業を担当した。明治42年10月9日太田金山(現群馬県太田市)遠足写真、当日は秋季郊遊会で教官・生徒一同が日帰りで太田市大光院を訪れた。道明も洋装で、ど真ん中に写っている。明治44年3月の写真は若き日の道明である。

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明治36年卒業写真(上左から4番目が道明)

 

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明治42年遠足写真(上右から5番目が道明)

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明治44年頃の道明

 道明は、大正3年、東京でも有数の名門学校をいきなり辞めた。官報にあるように昇給したばかりのポストをあっさり捨てた。50歳の節目に、小石川の自宅で執筆活動に専念することになった。

 村山𠮷廣著「漢学者はいかに生きたか」(大修館書店発行)を引用させて頂くと、

…官をやめた大正三年正月に心境を託した次の二篇の詩を残している。

『虚舟詩存』からその詩を抜き出して左にかかげておく。

 

  甲寅元旦口占

少小孤懐希聖賢

朝経暮史日鑽研

蹉跎空落青雲志

徒迓尼山知命

 

  甲寅春首掛冠有作

脱卻朝衣著布衣

初知四十九年非

閒雲野鶴従今後

月地花天自在飛

  

 門人佐藤文四郎の「虚舟先生小伝」によると、

先生が古い文字や言葉の意味を解釈する時、大変詳しく、行き届いていたことは事実であったが、それは、言葉の意味を正しく理解する上で必要であるからであった。

また先生は、孔子孟子の教えが中国では既に亡んで、行われなくなってしまったことを歎いて、彼の国の人々にこの教えを広め、この教えで導き彼らを救っていかなければいけないといつも話しておられた。

現在、漢詩を作る人は稀である。それは、漢字が難しい上に、詩のきまりが複雑で、面倒くさいと感じるからであろう。ところが先生は、既に十一、二歳の頃から漢詩を作られていたらしい。

十七年の歳月を経て書き上げたとされる不朽の名著漢和辞典「字源」の序の初めに「予、幼時、唐詩選・三体詩を愛読し、且つ好みて五、七言絶句を作り推敲苦吟・夜々夜分に達せり」とあって数年間は詩作に熱中されたようである。

けれども、十五、六歳以後は自由に作られ、字句を考えたり選ぶために苦心をしたり、何度も何度も練り直したりすることはなかったと言われている。自分の胸の中から流れ出る言葉を、あり合わせの紙にさらさらと書いたものが詩になっていたという。

上品で、しかも格調の高い詩になっていたのである。先生の詩は、酒に酔った時、または勉強の際などにふと感じて、封筒やはがきの端、新聞の折り込み広告、包装紙、パンフレットの裏、領収証、中には薬の包み紙に書かれた詩もあった。

だから作られた詩の大部分は、掃き捨てられたり紙屑として屑籠に放り込まれたりしたと思われる。書物の間や、原稿用紙の中などに紛れ込んで残ったものが「虚舟詩存」という詩集に残っている幸運なものである。

「詩は余暇にするので、自分の本来の仕事ではない。」と言われて、詩を残すこと、詩集を作ることを好まれなかったのである。「虚舟詩存」は先生の死後、弟子たちによって編集されたものである。」と記されている。

*註 唐詩選…中国、唐代百二十六人の詩を集めた詩集

*註 三体詩…唐詩を五言律詩、七言律詩、七言絶句の三体に分けて集めた詩集

 大正6年(1917年)「孝経校本」「実業漢文読本全三冊」「蒙求抄」を出版。

 道明は旅行が好きだった。53歳の折、北京・曲阜・西湖・盧山・長沙を歴訪し開城・京城を通って帰ったが、中国に遊び、彼の地の学者たちと交わり、古書の採集、史蹟名勝の探求に専念した。

 旅行から帰った後は、経学研究と辞典の編纂に没頭する為、勉強部屋を捜していた。道明夫婦は、多摩川の畔を下流に沿って探していたところ、羽田の地にいい土地を見つけた。それは代官屋敷跡で少し台地になっており、空気のよい六郷の提を越して、ゆっくりと動いていく帆が見えたという。

道明はこの地に別荘を構え、「間雲荘」と名付けた。道明は休みの度にここで過ごし、食事は一汁一菜と極めて簡素な生活で、終日著作に没頭した。