簡野道明は伊予吉田の偉人  4

結婚/東京へ

 本ブログは、平成22年(2010)名古屋大学大学院・文学研究科中国文学教授の加藤国安氏が、吉田ふれあい「国安の郷」で『簡野道明の若き日の足跡を訪ねて』と題し講演した資料を参考にしている。先生の名前が国安というのも何かの縁であろうか。

 因みに吉田藩成立の時、陣屋前に運河(国安川)を造ったのが総奉行・国安什太夫である。

 また、平成3年、吉田町立図書館長・堀田馨氏が著作した『簡野道明先生小伝』も引用させて頂く。堀田館長は、道明の弟子・佐藤文四郎氏が書いた『虚舟先生小伝』を分かりやすく書き換えて、なるべく多くの人々に読まれ、簡野道明先生を知る上の一助ともなれば幸いであると、あとがきに述べている。

 依ってブロガーは、これらの資料を勝手に編集しているので、著者には引用をお許し願いたい。

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 道明の新婚生活をネタに、教え子が「簡野先生が美しい奥さんを迎へられたといふので、夜、覗見をした」この昔話に、其の頃の簡野さんの様子を想像して、微笑を禁じ得なかったものである。と、島根の日本画家・伊藤素軒は「哭簡野虚舟先生」の中で述べている。

 簡野道明夫人とは、松山藩の典医、今井鑾の娘で信衛という。信衛の父は、福沢諭吉先生とも交遊があった。信衛は元治元(1864)年、愛媛県松山で誕生。当時の愛媛は、江戸時代より様々な思想や政治の潮流が交差する土地柄であり、このような教育環境に恵まれたためか、信衛は、封建的女性教育者とは異なる、かなり進歩的世界観とグローバルな視野を持っていた。大洲喜多村の小学校で訓導をしていたときに、道明と知り合い結婚した。この信衛夫人こそ、読書・揮毫・家政学にすぐれ、夫を陰で支え、またよく子らの養育をし、世に賢夫人として称えられた人物である。

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(信衛夫人像 ブロガー撮影2019年3月11日)

 明治25年道明28歳、兵庫県神戸高等小学校訓導になるが、「もっと勉強したい。」という気持ちが強く、ついに7年間の教員生活にピリオドを打ち、家族を連れて上京した。

 東京に出たからと言って、仕事の当てがあったわけではない。頼りになる知り人がいるのでもない。妻や子供を餓死させないという保証はどこにもない。苦難の時代、苦学の時代が始まったのであるが、道明は苦学という言葉を好まなかった。

「世の中に、学ぶほどの楽しみは他に何があるか、何もない。学ぶと言うことはこの上なく貴いことである。私たちはこの学ぶことの為に働くのである。たとえどのように心や体が骨折りであったとしても、学ぶ為にはそれは楽しみであって、苦しみではない。苦学などという文字、言葉はあっても、そのような事実はない。」と語った。

 道明は友人がやっていた出版社・文学社で雑誌の記事を書いたり教材の出版などを生活の糧とした。こうして働きながら独学を始めたが、明治28年東京高等師範学校(現 筑波大学)に国語漢文専修科が設けられたと聞くや、道明はここで勉強しようと入学した。既に中等教員の免許状を持ち、漢文の教科書の編集や校閲をやっていた者がどうしてと、不思議に思う人もあるかも知れないがこれまた止むに止まれない向学心の表れであった。 

在学中は、道明の学問・識見も相当なものであった上に、教授も大家であったから、互いに磨き合い励み合い、道明の研究も進んだものと思われる。

 明治29年高等師範学校を卒業し、明治30年東京府師範学校(青山師範学校の前身)の教諭となった。在職中に「初等漢文読本4冊」「高等女子漢文読本全4冊」「読書作文用字訣」「中等漢文読本全10冊」等を出版した。

 明治35年、38歳で東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の教授になる。

 小伝には『ある年、時の皇后陛下(照憲皇太后)が学校にお出でになり、生徒の授業をご覧になるということがあった。各教師は当日の為に授業の予行演習を幾度も幾度も行った。が、簡野先生は一度も、何もされようとしなかった。心配した生徒が「何か予行演習をしてください。」と先生に申し出た。ところが先生が襟を正して言われたのは、「自分は平素、最善の努力を尽くして授業をしている。情熱と誠意の限りを尽くした授業だ。これ以上のことは何もできない。予行演習も良いが、無理に芝居のようなことをするのは却って失礼になる。君子の恥ずる行いであるから自分にはできない。」と言うことであった。生徒たちは一言の言葉もなく引き下がったという。この頃から先生の教育に対する考え方が次第に変わってきたようであった。「教壇に立つ教育は、どんなに細かく丁寧に説明しても限られた時と人との間の範囲内でしかない。もっと多くの人々を、後々の世までも為になる教育をするには本を書く以外にはない。」と考えるようになったのである。』と記されている。

 道明は50歳になった大正3年、12年勤めた東京女子高等師範學校を辞めた。

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 国立国会図書館著作権保護期間が満了した資料などをウェブサイトで一般公開している。その膨大な資料の中に、道明が東京女子師範学校に勤めていた時の辞令などが残されている。

明治41年5月12日付官報 辞令

東京女子高等師範學校教授 簡野道明 5月9日群馬茨木栃木ノ三縣ㇸ出張ヲ命ス

明治43年10月18日付官報

東京女子高等師範學校教授 簡野道明 10月15日文部省 九級俸下賜

大正3年3月14日 官報

東京女子高等師範學校教授 簡野道明 七級俸下賜