坂村眞民先生をこよなく愛する人々

 5月のある日、横浜にある「宝積寺」を訪れた。母校吉田高校の先輩からのメールがきっかけだった。この寺のホールで眞民先生を敬愛する人たちは詩の朗読や演奏会を開いた。先輩の娘婿はサックス奏者、亡き母は西予市明浜町俵津の人。母の郷土で彼は詩人・坂村眞民を知る。

コンサート第二部では眞民先生の詩をアマチュア劇団員が朗読し、女性歌手が唄う。『二度とない人生だから』など数詩が披露された。

 このお寺の境内には先生の詩など多くの石碑があった。先生は平成2年にお寺を訪れ詩を詠んだ。ホールの中も眞民先生の書や詩が満載だった。先生に心酔した年輩の方は、全国400の詩碑を見て回ったと語ってくれた。北海道には「念ずれば花開く」の12メートルの巨大な石碑がそびえて居るという。上総一ノ宮には7つの詩碑が数カ所のお寺にあるそうだが、今度行ってみよう。

 元号が「令和」になったが、昭和最後の日、NHKは総ての番組を変更し眞民先生が出演した「念ずれば花開く」を終日放映した。坂村眞民の詩は多くの人に愛されて、世界に730もの石碑が建てられている。世界的、国民的詩人であることは間違いない。

 この日、書家の中澤京苑女史が同行してくれた。彼女は『トランパー』題字の揮毫者で坂村眞民ファン。昨年、眞民先生が作詞した吉田高校校歌を書に認め、関東支部同窓会に届けてくれた。

先日、旧友が集まり同級生が印象的な話をした。

先生は校歌を創る時に国安川に手を浸け詩想に耽っていたそうだ。吉田高校同窓会では京苑さんの書を見て皆で校歌を唄った。水害のあった年だったので最後に「がんばれ吉田!」と絶叫した。

 

(坂村眞民 年譜) 出典:坂村眞民記念館

明治42年1月6日熊本県玉名郡府本村(現・荒尾市)に生まれる。戸籍名・昴(たかし)

昭和2年18歳、伊勢の神宮皇学館(現・皇学館大学)に入学。

昭和6年3月、神宮皇学館国語漢文科卒業。

昭和9年4月、25歳で朝鮮に渡る。全羅南道順天女子校の教員。

昭和13年8月、第1回招集を受ける。

昭和16年4月、全羅北道全州師範学校に転勤。

昭和20年8月6日、第2回目の招集、終戦、11月朝鮮より引き揚げ熊本に帰る。

昭和21年5月、四国に渡り愛媛県三瓶町の山下第二高等女学校教諭に着任。

昭和25年4月、県立吉田高等学校に転勤。

昭和26年、臨済宗専門道場「大乗寺」河野宗寛老師に参禅する。

昭和30年46歳、網膜炎、内臓の病気で生死を彷徨うが、利根白泉先生の助力で大難を克服。

昭和31年4月、県立宇和島東高等学校に転勤。

昭和37年「詩国」を発刊する。

昭和40年4月、県立吉田高等学校に転勤(2回目)。41年定年、非常勤講師。

 *ブロガーは「古文」の授業を受ける。

昭和42年4月58歳、私立新田高等学校の講師。

10月伊予郡砥部町に居をさだめ、以後、NHK等の放送局に出演。全国に癒しの詩人として知られていく。

全国の刑務所に「自選坂村眞民詩集」を納本するなど社会福祉活動を行い、数々の出版物が世に出ている。

 平成18年12月老衰のため永眠、享年97歳。

 

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