簡野道明は伊予吉田の偉人  3

代用教員から師範学校へ/教育者の道

 道明は、明治13年16歳の若さで東宇和郡白髭小学校(現西予市野村町)の代用教員となった。吉田から数里離れた山間部で、両親の許を離れ一人で小さな茅屋を借りて住んだ。家の前には荒間地川の清流が流れ、水を汲んで顔を洗い、自分で御飯を炊いた。その薪の火光で読書をしたという。

吉田三傑の山下亀三郎も京都で代用教員になったのが16歳だったが、その頃は小学校創成期で教員が不足していたらしい。亀三郎はその後、上京し明治法律学校(現明治大学)に進むが、道明も明治15年、18歳で小学校の先生を辞め愛媛県師範学校に入学した。もっと勉強したいという強い気持ちと、正式な教員免許をとる為であった。

 吉田三傑の清家吉次郎は道明と全く同じ道を歩んでいた。吉次郎は亀三郎と竹馬の友で乳兄弟だったが、課外塾では国学者兵頭文斎に儒学、漢学を習った。明治18年愛媛県師範学校(19年尋常師範学校改称)へ入学し明治22年7月に卒業した。

吉次郎は慶応2年生まれで道明より1歳下、師範学校は先に道明が卒業していたので「清家吉次郎伝」には道明は登場していない。

 (2021.10.13追記:吉次郎は、吉田中学建設の寄付を道明に要請し、50円を援助してもらった)

 道明の師範学校の生活は、他の生徒とは違って、大分大人びていたようである。日曜日などの散歩には、必ず大きな瓢箪に酒を入れて、腰にぶら下げて出かけた。散歩して訪ねるところもたいていはお寺や神社であった。寺に行けば必ず住職に面会し、詩の分かる和尚であれば、詩について話し、お寺にある書画や古文書などを見てまわるのが、いつもの習慣であった。生徒は全員寄宿舎に入って生活していた。道明は生徒でありながら舎監を命ぜられた。先生が成績と共に人物も優れていた事を学校の先生、生徒共に認めていたのであった。けれども当時の道明は一向に勉強はされなかった。なのに、いつも試験の成績は飛び抜けてよかった。 

 明治17年20歳で師範学校を卒業し、東宇和郡柳郷小学校(予子林小の前身)の訓導(教師)になる。柳郷は、現在の大洲市肱川町で、平成30年7月豪雨のダム放流による甚大な被害を被った町である。

 明治20年23歳となり、卯之町(現西予市)の高等小学校「開明学校」で1か月訓導を務めた。開明学校は、明治15年に建立され当時の学級数は4、教師4人で月給2~3円の薄給、児童の意識も寺子屋同然だったという。開明学校は白壁にアーチ型の舶来ガラスを採用、西日本最古の校舎として平成9年に国の重要文化財に指定されている。

 道明は9月に赴任し同月解任されている。当時教員の定着度は低かったが、発見された職員出勤簿によると、道明は9日~17日、23日~25日が欠勤となっており半月近く休んでいる。

 その後、宇摩郡三島、喜多郡大洲等で訓導を勤め、明治23年9月東宇和郡予子林(よこはやし)小学校2代目の校長となった。

 かつて簡野道明の研究家、名古屋大学大学院・加藤国安教授が調べた所、この学校は現在6学年全体で17名。明治23年の統計では、男子67、女子26だった。当時の簡野先生は、和服に下駄、それに流行の山高帽で、颯爽としておられたという。洋風化の教育に異議を唱えた。

「体操も唱歌も洋服もすべて外国向だ。之を好む仁は、幾何か軽薄の仁たるを免かれない」(坂本楽天簡野道明君」引用)

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先日、蒲田女子高の簡野高道理事長を訪問した折、「学祖簡野道明の足跡を訪ねる」という冊子を頂いた。平成22年8月に高道理事長ら「簡野育英会」一行は、道明の赴任先を訪問し歓待を受けた。

 西予市野村町白髭地区で一行は、道明の在りし日の生活を知ることになる。当時、愛媛大学の教授だった加藤国安氏は、道明の研究調査で白髭を訪問した。地元の人が道明の住んでいた所など案内し資料など見せて調査に協力した。それを基に後日、加藤教授は『知の創造』を出版したという。

 また野村詠吟会の方が「漢学者簡野道明先生を称える」と題し漢詩を作り詠吟した。理事長一行は、道明の住居跡や学校跡地を見て回り、道明の事をこんなにも地元の皆さんに大事にされていることを知り感激したと、冊子に書かれている。

 大洲市肱川町では、教育長、史談会、予子林小学校など関係者が集まり、祖先が道明先生から教育を受けた事など話しが弾んだという。予子林小学校校歌に「簡野の道を文ひらき~」という歌詞があると元校長の親族が語った。ここでも地元の人が、一行を歓迎する漢詩を披露し更に吟じた。開校124年目を迎えた予子林小学校では、児童が校歌斉唱し、詩吟を披露した。この学校は詩吟大会で数々の優勝をするという、道明漢学の精神が継承されている。