坂村眞民先生は癒しの詩人
しんみん先生が好きなタンポポの季節になった。朴という木も先生は好きだった。ほおの木を知ったのは、ウオーキングクラブで物知りの老女が教えてくれた最近のこと。何時も休憩する所に、香りのいい白い花が咲いていた。
先生の詩に、朴とタンポポという詩がある。
わたしが一番好きなのは朴とタンポポだ
一つは天上高く枝を伸ばしてゆく山の木であり
一つは地上深く根を下ろしてゆく野の草だからである
この天上的なものとこの地上的なものを
こよなく愛するがゆえに
願える事ならこの二つをわたしの眠るかたわらに
植えてもらいたい
風吹けば朴の木はほのかに匂い
タンポポの種は訪れた人の胸にとまって
わたしの心を伝えるであろう
古い話だが、昭和48年(1973)発行の旧制吉田中学「創立五十周年記念誌」に、思い出のコーナーで、山下亀三郎理事長、清家吉次郎町長、桜庭十蔵校長などの挨拶文が掲載されているが、その中で坂村真民(旧職員)の詩を紹介している。
よう帰ってきなはった
吉田には二度お世話になった
二度目のときである吉田の町を歩いていると
いつも新聞を配ってあるくおばさんが
さかむらせんせいよう帰ってきなはったと挨拶された
吉田病院へ行ったら診察を終えて出ようとするおばあさんが
また同じことを言って下さった
魚売りのおばあさんに会うとまた同じ挨拶をされるではないか
わたしはこの時ほど吉田というところがどんなになじみ深いところであったかをじんじんするほど肌に感じたことはなかった
つねづねわたしは人に言ってきた若し吉田にこなかったら
わたしは人間にも詩人にもなれなかったであろうことを
吉田には大乗寺があった
利根白泉先生がいられた
このお寺とこの偉人な先生とによって
わたしは人間を変えたいや変えさせられた
四面楚歌の時代であったけれども
わたしはかなしき(鉄敷)の上に
自分を置き
自分を鍛え
自分を磨いた
胃ガン肝臓ガン膵臓ガンと診断され死の直前まで追い込まれたが
白泉先生のおかげで脱出することができた
その後もさんたんたる苦難が潮(うしお)のように押し寄せたが
大乗寺に座ることによってわたしはこの危機を乗り越えることができた
今思えば吉田時代はわたしの一番激しい苦闘の時代であった
本堂の釈迦如来さまであろう
いやあの裏山の木々たちも知ってくれているかも知れぬ
よう帰ってきなはったという声々が
わたしの胸を熱くさせる吉田よ
たちばなの花香るよき里よ
この記念誌には旧職員と書いているが、真民先生は国語、古文などを教える教師で、ブロガーが教わった年代(昭和40年頃)は、吉田高校へ2回目の赴任だった。
工業科の連中は先生のことを覚えていないと云う、普通科の者は何時も図書館で本を読んでいたと…しかしブロガーは先生の授業が印象深かった。
後で分ったことだが、海運王・山下亀三郎が三瓶と吉田に女学校を創設した縁で、真民先生は九州熊本から四国に渡って来た。
昭和天皇崩御の時、NHKは過去に放映された「念ずれば花ひらく」の再放送を終日流した。東日本大震災では先生の詩が被災民を癒したという。先生は、日本国民的詩人として愛され、97歳の天寿を全うした。
***
坂村眞民先生から授業を受けた9歳上の先輩から手紙が届いた。
親族に、眞民先生の詩を学ぶサークルがあり、今度横浜・宝積寺で詩の朗読と、音楽会を開くというご案内だった。
この寺の住職が先生に私淑されており「念ずれば花ひらく」の20番目の詩碑が境内にあるという。今では世界に740基もの詩碑が建てられているが、各地の書道展でも先生の詩を書く人が多いそうである。
同郷のよしみで紹介すると、このコンサートは5月11日にテラノホールでプロ奏者が~TUMUGI-紡―癒しの詩~渡辺純一の世界と銘打って開催するという。(チラシ添付)