愛南町と清家吉次郎
『清家吉次郎伝』を執筆したのは、正岡子規に縁がある俳号「里雪」、元新聞記者で著述家の阿部利行である。
伝記編纂が決まると山下亀三郎翁は準備金と旅費を里雪に渡した。早速、里雪は清家の生地吉田町喜佐方へ向かった。吉田、宇和島で取材を重ね帰京後、伊香保温泉に籠って伝記を書き上げた。
阿部里雪は20歳で子規の幼友達「柳原極堂」が社長をしている伊予日日新聞に入り、当時愛媛県議会で「霹靂の舌」と呼ばれた名物男の清家を取材した。昭和3年極堂を慕って上京、五百木飄亭の「政教社」記者となった。極堂の俳誌「鶏頭」の編集で正岡子規門下の人たちと交流することになる。
その後、郷里の伯方島に帰った里雪は、古稀の時に『子規門下の人々』を愛媛新聞に連載したが、高浜虚子の項で俳人・清家の名が出ている。それは松山の記者時代の貧しい生活の事を書いているが、要は(清貧の士)についての記述で、松山時代は柳原極堂、岩崎一高、村上霽月、清家吉次郎が清貧の士、東京時代は五百木瓢亭、河東碧梧桐、寒川鼠骨などその類であった、と言及している。
里雪は、清家の晩年に俳句仲間の五百木瓢亭が詠んだ半折を持って病床を訪ねている。清家は俳号を「無逸」と称し俳句が盛んな吉田町の句会で気焔を揚げた。里雪も俳句をやり、清家や県の重鎮らとの句会によく参加したという。
里雪は伝記「病床の子規を訪ねて」の項で、明治33年清家が根岸の子規庵にゆき、子規から俳句の手ほどきを受けたと書いている。里雪は明治26年生まれなので、当然その逸話は子規門下の誰かから聞いたものだろう。
さて、前置きが長くなったが、清家が愛南町に赴任中、土佐柏島の学校を訪問した事がある。その見聞記は病床の子規を感動させ日本新聞「病牀六尺」第一話に採用したことである。
ブログ本「吉田三傑」と重複するが、子規との機縁は根岸を訪問してから後も続いていた。里雪がこれを知っていたら伝記に当然載せるであろうが「子規門下の人々」からも聞いていなかったのであろう。
これには訳がある、清家は愛媛県の視学で他県の教育事情を海南新聞(現愛媛新聞)に投稿するのには「せき生」というニックネームにせざるを得なかった。これでは誰も分からない。今でも子規研究家の間では、この逸話を誰が書いたものか特定に至っていない。唯一「せき生」を清家吉次郎と断定している人物がいる。(2016.10.3ブログ参照)しかし、状況証拠だけで確証がない。久良湾に着水した紫電改のパイロットと同じである。
清家が5年間過ごした御荘平城は、交通の要衝で宿毛街道の要となっている。柏島水産校の校長は、修学旅行で大坂・下関・別府から宇和島港に帰り、オンザウエイの御荘平城に清家を訪れている。その話に感心した清家は、遥かに望む柏島まで行ってみようか!と明治35年4月頃歩いて視察の旅に出た。(のであろう)
今回、愛南町にきて初めて分かった。平城の山から遠くに柏島が望めるのである。
120年前、アクセスが乏しい時代に清家が意を決して校長に会いに行ったことは、教育者としての興味があったのであろう。
清家の長文の投稿記事を子規に送ったのは、海南新聞の主筆柳原極堂で、それをエッセイに取りあげた子規の教育に対する想いは晩年でも消えることはなかった。