愛南町へ行く(紫電改)

今年のゴールデンウイークは、平成から令和へ元号が変わることで、10連休となった。吉田中学校の同級会が宇和島であり45名が集まった。友達曰く「この11年間に8回も参加したよ」マア、よく続く同級会である。

宇和島からバスで愛南町平城の「紫電改保存館」へ行った。かつて吉田三傑の清家吉次郎が教鞭を執っていた南宇和小学校があった所である。昔は城辺と言っていたが愛媛県の南端、隣は高知県宿毛市で、吉さんはえらく遠い所まで赴任したものだ。

吉次郎は平城から学校に通ったというが、平城という地域も中々広い。保存館は海抜150mの所にあり、その上に107mの「宇和海展望タワー」が建っている。そこからは宇和海が広がり、吉次郎が明治35年に訪れたという土佐の柏島が遠くに見える。その頃は1日がかりで柏島の水産補習学校にたどり着いたのではないだろうか。

紫電改保存館に引きよせられたのは訳がある。昔、特攻隊要員だった舞踊家の宮川氏は、戦死した先輩たちのゆかりの地を訪れ鎮魂歌を作り踊った。宮川氏は2月に卒寿を祝ったばかりだったが、このまえ90歳の天命を全うされた。松山市の食堂のおかみさんが343航空隊員に「紫のマフラー」を贈った話を宮川氏はエッセイに書いていたが、それが保存館に飾られていた。

昭和20年7月24日大村基地から飛び立った紫電改は、呉方面から引き返す米軍機を豊後水道の上で迎え撃ち大空戦となった。

343航空隊は紫電改たったの21機で空母「ヨークタウン」の艦載機約200機に立ち向かった。この空戦で未帰還が6機、そのうちの1機がこの地の久良湾に沈んだという。終戦3週間前の事だった。

昭和54年7月に遺族や報道陣が見守る中、この紫電改が引き上げられた。日本にただ1機残存する旧海軍の戦闘機である。

ブロガーが勤めていた会社の親会社役員の親族がこの機のパイロットではないかと云われている。

保存館のすぐ上が展望タワー、坂を登ってたどり着くとすぐ出るというので客室に乗り込む。回転しながら107mまで上昇するが360°の大パノラマも足がすくむ。乗車時間6分間のことだった。

f:id:oogatasen:20190506113121j:plain紫電改保存館の上に展望タワーが見える

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「紫のマフラー」グッズを買った

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損傷個所が見えない、何が原因で落ちたのか?

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右端に沖ノ島柏島も遠くに霞んで見える

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この展望車が2分かけて107mまで昇る

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この久良湾に紫電改が沈んだ

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