簡野道明は伊予吉田の偉人  8

小伝に書かれたエピソード

 

(著述の日々)

 先生がある種の本の註釈を為さうと、思ひ立たれると、数年或は十数年に亘つて、材料を蒐集して、準備される。そして一旦筆を下されると、実に神速に運ばれる。それは長い間、あの明敏な頭の中に、順序立てられてゐたものを、するすると引出されるからであつたらう。

 著書に古人の説を引用される場合は、自ら筆写されず、その本から切取つて、自分の原稿に貼付される。原本が如何に貴重な本でも平気である。「勿体ないではありませんか」と言ふと、「出来上ればこの本が、更によいものとなるから、勿体無い事はない」と言はれる。これなどは、先生が御自分の衿作に対する自信の程を窺ひ知るに足る話である。

 同郷人でもあった坂本楽天もその学問と人物とについて次のような逸話を伝えている。

 

 又之は青年時代の事ですが、或日の事、私は赤松三代吉氏を伴うて、簡野氏の宅を訪問した事がありました。互に交話する中、赤松君は氏に対し「君は洵に勉強家だ而して亦忍耐強い仁だ」と申さるゝと、氏は笑つて云はるゝに「僕を勉強家だとは失敬千万、君見給へ、一体勉はつとむる、強はしゆると読む。僕は決して強ゆるものではない、只学を楽むものである。強ゆるものと楽むものとは雲泥の差がある、立身出世をなす仁は、総て事物を楽むのが常である」

と、赤松氏は之を聞いて大に感心されたのであります。

 

(信条と詩業)

 先生の処世訓に「すべて物事は万事控え目にして一歩を人に譲れ」とある。『菜根譚』に、径路窄き処は、一歩を留めて人に与へて行かしめ、滋味こまやかなものは、三分を減じて人に譲りて嗜ましむ。これは是れ、世を渉る一の極安楽法なり。

とあるは、先生の教訓であった。今かりに十だけの仕事をした時、十の報酬を獲れば功利的にはきわめて正しい取引きであろうが、精神的な立場から見ると、貸借相殺の場合で、社会奉仕という仕事は残らない。世に尊いものは無報酬の仕事である。無報酬の仕事を多く積むことが人格の向上であり進徳修養の一路である。十の仕事で五の報酬を得て満足すれば世に五の仕事が残る。全く報酬を得ないで満足すれば仕事が完全に世に残る。こういう無報酬の仕事を陰徳というのである。当然獲べきを捨てて陰徳を積むとやがて陽報がある。こういう人はつねに「心広く体胖か」である。

 先生はどんな仕事でも捨身でかかられた。これは先生を知る限りの人が悉く知つていることである。「そんなつまらぬ本の解釈なんか、おかしくて書けるものか」などと言う者に、むずかしい書の解釈が立派にできるはずはない。また低級な者には講釈できないという人は、たとえ専門の学にすぐれていると言っても、実は無学な修養の不徹底な人物である。

 先生はつねにこんなことを語られた。私がはじめて教師になる時「中学の一年生に教える際でも一時間の授業の下調べを二時間も三時間でもかけてやる心掛けでなければ、人にわからせる講義はできないものだ」とこう戒められた。

  先生の頭脳明晰であられたことは天成であった。これは誰人も異存がないであろう。しかし先生の刻苦精励に至っては人或は之を知るものが少ない。私は世に先生ほどに時を惜しんだ人を知らない。

 先生が書を読んで薄暮に至ると、頭上の電灯を点ずる一挙手の時を惜しんで家人を呼んで命ぜられる。この境に至っては人或は之を理解するに苦しむかも知れぬ。先生の時を愛しむは、かくのごとく甚しかったのである。

 先生は多弁を戒められた。内容空虚な者ほど高い声を出すとされた。御自身すこぶる沈黙の人であった。人に不快を与えるような黙り屋ではないが多言を弄することを好まれず、いつも和かな気分で黙々として人に対された。この先生の沈黙は不必要な言を出されぬということで、必要があれば諄々として縷々千万言も費やされる。散歩の折などに道の傍の草木虫魚について何かたずねると、その和名、漢名より生態、変化或は利用、効用に至るまでおどろくべき該博なお話をなさって、先生の博識にすっかり感心させられるのである。

「言語は君子の枢機である」とは先生の常の言であった。「言うべきは言わねばならぬ。言うべからざるは言ってはならぬ。その言うべきと言うべからざるとの弁別は凡庸の者のよくする所ではない。もし分からなければ言わざるにしかず」と先生はおっしやったのである。「言に訥にして、行いに敏」、これは先生の実践躬行されたところである。

 

 先生がある亡友の追悼録にこう書いておられる。「漢学者はややもすれば銭穀などの理財の業を軽視するの弊がある。これは大いなる繆見で、元の許魯斎が学は治生を以って第一となすと言っているのは実に千古の格言として服膺すべきだ」と。

 これは実に先生の持論であった。人がその死後において子孫を路頭に迷わしむるが如きことあらば生前いかに功業あり学徳ありとも、不知と言うべく、清貧を以って称揚すべきではない。身太平の世に生まれ、士君子となって死後たちまち妻子をして飲食に窮せしむ。この人、果して士君子と称すべきか。世の貧富におのおの二つあって富に清富・濁富といい、貧に清貧・濁貧という。清貧は全くしがたく、清富は全くしやすい。孔子も濁富を不義と言ったのであって、子貢の理財の才を退けてはいない。人は正当の努力と安分の生計とに依って清富を求むべきである。清貧は最も美しいが、少しく誤ると忽ち濁貧になりやすい。しかれども清富は道に志せば、致しやすく守り易いのである。先生の清富論は以上の如きものである。先生はこれを実事上に実現せられた。

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『虚舟追想録』には徳富蘇峰の「虚舟詩存に就いて」の一文があり、道明の詩業について次のような評価がなされている。

 

 往年朝鮮の湖南鉄道―—大田より群山に赴く途次——の車中に於て、偶然にも、懐中より、何やらの詩集を取り出して、耽読しつゝある一客を見出した。互に名乗れば、それが簡野道明君であった。

 簡野君は、『故事成語大辞典』や、『字源』の著者として、我等も少からず其の恩恵に与ってゐる。而して爾来記者も亦君が羽田六郷河畔の間雲莊の枇杷会に招かれたることを記憶する。

 枇杷会とは庭内の枇杷黄熟する候を卜して客を会するのだ。荘は花木掩映、邸地閒朗、真に江湖澹蕩の趣があった。

 君は昭和十三年二月、七十四歳にして長逝した。今や其の遺集として、『虚舟詩存』は出て来つた。虚舟は君の号である。君は著述を以て、畢生の事業として、曰く、詩は余事のみと。

然も君が詩を嗜むことは、猶ほ酒を嗜むの類の如きものがあつた。

     丁卯七月間雲莊枇杷会酔題

  老樹囲書屋 森森翠欲流

  紅塵飛不到  高臥見雲浮

 (中略)

 要するに、簡野翁は詩人ではない。詩は自ら云ふ如く、余事である。然も其の景を敍し、志を言ふもの、概ね真実に即せざるものは無い。此処に君の本領は自から存す。