伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし     (米俵の防空壕)

 米俵の防空壕ジュラ紀前より引用)

 昭和2 0年の5月、ある日の昼過ぎ、グラマン戦闘機が宇和島市に急降下爆撃を加えるのを目撃した。ブーンと急に爆音が空から降ってきて丘の向こうに機影が消えたと思った一瞬後、ドカン!という爆発音が響き渡った。続いてブーンと急上昇する機影が再び視界を斜めによぎり、それを追うように入道雲のような黒煙がもくもくと丘の背の上に顔を出してきた。ちょうど家の前の路上にいた私は、思わず機影に向かって「ちくしょう」と心の中で叫び、こぶしを握り締めた。

 実際には隣り街に落とされたのであるが、直線距離にして4キロほどしか離れていない。丘の背は家並みのほんのちょっと上である。それに飛行機をそんな近くで見たことがなかったし、ましてや爆弾の爆発音なんて生まれて初めてである。一瞬、町外れに落ちたのかと錯覚した。表に立ちすくんでいる私を母があわてて家に引き戻した。

 以来、いずれ間もなくこの町にも空襲があるのではないかと住民の不安はつのり、子供をさらに田舎へ疎開させる家庭が出始めた。その後、宇和島市は何度かの爆撃を受け市内は焼け野原になった。いよいよ今度はうちの町にも落とされるのではないかという心配が現実味を帯び始めた。

 そうした時期、米穀配給所の宿直に父についていった。当時、米は自由に売買できず政府の統制下で配給制になっていて、町の米屋さんはみんな配給所の職員になっていて、夜も毎日交代で一人が宿泊し、盗難防止と万一の空襲に備えた。

 B2 9爆撃機が高空を行き来する頻度はますます高くなり、ラジオの戦果放送とは裏腹に空襲の心配はつのるばかりである。

家の裏手、川向の犬日城山に兵隊さんが大勢やってきて穴を掘り始めるし、長い軍刀を腰に提げた上級軍人の姿も目につくようになった。配給所は敷地の真中が空き地になっていて、これを囲むようにロの字型に建物が建っている。父が見回っている間、宿直室はシーンと静まり返った。

 就寝前の見回りを終えた父と私がうとうととしかかった時であったろうか、飛行機の爆音とけたたましく鳴り響くサイレンに跳び起きた。

 空襲警報だ。人々が往来をあわただしく駆け抜けていく。消防車の鐘やサイレンの音が、あちこちから聞こえてきては表を通り過ぎる。父は跳び起きるやいなや防空頭巾を私の頭にかぶせ、抱き上げるようにして倉庫に転がり込んだ。私を俵の山の隙間に潜り込ませ、自分は傍らに屈み私の頭を抱えた。

シューシューシュー、バリバリバリ、ドン、ドン、ドドン。爆弾とは少し違う破裂音、落下音が続いた。俵の下から倉庫の軒下の細長い窓を通して、花火のような明るい光の塊が何個もゆっくりと落ちてくるのが見えた。

 町が薄明かりに照らされ家々の屋根のシルエットがはっきりと浮かび上がる。俵の隙間でシュルシュルシュル、パリパリパリパリ、ドン、ドン、ドン、シューシュ—という音を聞きながら息を殺した。倉庫の窓越しに南の空が明るくなり町が燃え始めているのが分かる。相当に近い。

 父はどうしていいか分からなかったのであろう、凍ったようにじっとしていた。みんなのための米である、職場放棄はぎりぎりまでできない。直撃弾さえ食わなければ助かる。落ちてきてからその時の状況で対応するしかない、と腹をくくっていたのかもしれない。かなりの間ただじっとしていた。

 南の方向、桟橋の辺りに落ちているらしいことは判断できた。しかし小さな町である。港と配給所のある町の中心とは5 0 0メートルくらいしか離れていない。配給所にまで及んでくるかもしれない。その上、配給所も町では目立つ方の施設であり狙われる可能性は十分考えられた。来ないように来ないようにとただ祈っていたに違いない。

 どのくらいの間だったかじっとしていた後、爆音は遠ざかっていった。1度2度旋回する程度、ほんの5、6分くらいのことだったのかもしれない。しかし、それがずいぶん長く感じられた。

 やがて門の戸をたたく音が間こえた。同僚が駆けつけたのであろう。父は俵から離れ玄関の方へ行った。同僚が町の被害の状況を知らせてくれた。父がようやく普段の落ち着きを取り戻して引返してきた。私も俵の下から解放され思いきり背伸びした。

 とにもかくにも無事に朝を迎えることができた。まぶしい朝日を浴びながら家路につくと、みんながぞろぞろと桟橋の方へ桟橋の方へと向かっていた。

 家に着くやいなや私も近所のがき仲間に加わって現場へ出掛けた。現場に近づくにしたがってプーンと油のにおいと煙のにおいが強まってくる。現場では硫黄のにおいも混じって漂っていた。

桟橋前の倉庫群と周辺の民家が被害を受けてまだくすぶっていた。これまで経験のない、えたいの知れないにおいに気分が悪くなりそうなのをがまんし、鼻をつまみながらまだくすぶっている現場に入った。そこら中にゼリーのようなものが散らばっている。焦げた筒状の焼夷弾の残骸に混じってカーキー色の不発弾も見られた。今にして思えば危ない限りである。

 大人に制止され追っ払われるまで、ゼリー状物を棒でつついてみたり興味津々である。追っ払われながらもまだ見ていない方へ見ていない方へと逃げ、ほぼ被害地を見回ることができた。

 青年、壮年の男子はほとんど出征していて、人口構成も女子供に老人が主であった。いろいろ指揮したり統制したりするには人手が足りなかったことであろう。跡地の整理もなかなか進まず、その後しばらく現場はそのままになっていた。

 当時、宇和島市はもうすでに焼け野原になっていた。もう落とすところがなくなって広島、呉辺りを襲った帰りに残りを捨てて行ったのだろう、また来るかもしれないと憶測が飛び交った。豊後水道を通って上陸してくるつもりではないか、との憶測も流れた。水道に面した町は大小を問わず徹底的に破壊するつもりだろう、と妄想は広がる一方である。

 それから間もなく広島に原爆が落とされた。何かしら新型の爆弾が落とされたらしいという噂に、父母はいよいよ本土決戦かと心配し、居ても立ってもいられなくなったのであろう、私と妹たち3人が山村の農家に預けられることになり疎開したのは、その後すぐのことである。戦後しばらくの間、沿岸漁の網に不発弾が掛かったニュースが続いた。

 後年、大阪へ出てきてからこの空襲の話をしても誰も信用しなかった。なにお寝言を言っている嘘だろうと言う。都会の空襲が本当の空襲で、おまえとこのなんか空襲ではないと頭から相手にしない。自分たちが一番すごい経験をしたと自負していて譲らないのに驚いた。むしろ田舎の人に空襲の怖さを話して聞かせてやろうと思ったのに、なーんだおまえも知っているのか、つまらん、と不服顔である。

 被害の広さ空襲の回数で比較すれば、むろんその通りである。しかし原爆はいざ知らず、焼ける、爆発する現場に変りはない。焼かれる蚊にとってはローソクの火も焚き火の火も同じである。人間の心理の非合理さ不可思議さに考え込んでしまった。

 ついでながら、当時防空壕は家の前、道路脇にも学校の校庭にもあった。町中あちこちに作られていた。その壕作りの手伝いもしたし、訓練では何度も入った。

しかし私が現実に使った壕は俵の壕であった。あの湿っぽい地下の壕ではなく、米俵の脇で済んだのは幸いであった。