西国の伊達騒動 11

吉田藩紙騒動(4)商人と百姓

 作之進は、法華津屋が紙の商売を止めたいという、手前勝手な言い分に腹が立っていた。

 御用商人は、藩や、大阪の豪商らから借りている楮元銀の資金を、返済できなくなった。それは、近年、紙の出来が悪く、紙漉き百姓衆からの返済が滞っているからと申している。

 吉田藩は、法華津屋が所有する千石船で紙を大坂の紙問屋へ回漕している。紙事業のシステムには、御用商人が大きく係わっている。これが破綻をきたすと、お家の一大事である。そう安々と大手商人が商売を止めてもらっては困る。

(両高月家は、藩に無理を言って返済金を棚上げさす魂胆ではないか?)

と、作之進は考えていた。

 山奥の出目村の番所で、作之進は商人たちの我が儘な言い分を話したが、庄屋の新次郎は、

「百姓衆も、金を貸してくれる商人がいないとやっていけない、法華津屋がやめるのだったら、藩に資金の拝借をお願いするしかないのでは……」

と、百姓衆の代弁をした。

 作之進は、紙事業の金回りが悪くなった原因を考えた。

――紙の製造元の山奥組は、楮、三椏の栽培に問題はない。紙漉きも資金を充て生産を増やしている。紙の販売は御用商人が大阪に出荷し収入がある。藩は、年貢を取り立て、紙の資金として御用商人にその一部を預けている。紙の需要が続く限り、金のサイクルは回り続ける。

 では一体に何処に問題があるのか、法華津屋が嘘を言って居るのか?百姓共に偽りがあるのか?他所への密売か?金貸しの利率が高いのか?年貢が高すぎるのか?――

 何れにしても紙が無くなると藩が困る。それを判った上で、商人と百姓の虚々実々の強かさを作之進は感じていた。

 当時の吉田藩主は、六代目伊達村芳(むらよし)、寛政二年、十三歳で家督を継ぎ、江戸御屋敷に詰めていた。よって藩政は家老の飯渕庄左衛門、尾田隼人、松田六右衛門らに任されていた。

 その頃、宇和島藩主伊達村候(むらとき)の推挙で安藤儀太夫継明が家老の列に加わっていた。

 藩の重役は、法華津屋の陳情を聞き、御用商人の預かり金(楮元銀)の返済猶予と、百姓の借金についても見直すことで、部下の役人らに指示をした。

 財政の見直しを御内方、御郡方、町方の三役人が行うことになった。結局、商人の預かり金は、紙漉き村から取立てた金額に応じて、年賦で返済する事に決まった。

 紙漉き百姓の取立てについては、御勘定方の檜垣甚内と中見役鈴木作之進の両人が仰せ付けられた。

 取立てのスキームが決まって、代官の岩下萬右衛門と平井多右衛門は、鈴木作之進を伴い各村々の庄屋所へ向かった。

 吉田陣屋から十本松峠を越え、三間盆地へ入った。やがて宮野下村に着いた所で、代官は、集まった庄屋共に、

(この度、藩の方針が決まったので申し渡す。百姓共の借金は藩が管理する事になった。今後は、鈴木作之進らが取立て業務一切を行うので、残債や返済方法についてはよく相談をすること)

と、申し聞かせた。

庄屋共は神妙に聞いて、

(相分かりました、只今申し述べられたこと、百姓衆によく伝えます)

と、代官らに頭を下げた。

 この話を庄屋から聞いた百姓共は、

(法華津屋の金利はべら棒に高く、紙の値段は安い、これでは何年たっても返せない、無い袖は振れない)と息巻いた。

 急に忙しくなった作之進は、先ず、百姓の借金がどれだけあるのかを調べた。法華津屋への返済方法や、今からの取立てを如何にするか、頭を悩ました。

 大方の百姓共に話しを聞いた作之進は、

(これは、とても五年や十年では返せない額で、多分二十年以上はかかるだろう)と算盤を弾いた。

 一方の預かり金は、如何になっているのか、作之進は、密かに法華津屋両家の帳面を調べて驚いた。両家の預かり金は、二百八十四貫(現・約三~四億円)に達していた。

 藩の御預け金は、紙を買い付ける資金と、百姓に貸す設備資金として御用商人に下される。その内容は、作之進の勤める御郡方は何も知らない。まして村方、町方は知る由もない。

作之進は、

(多額の預かり金はどうも無利子らしい。百姓の返済が長引くと預り金は減らない。大阪方の為替の歩合も安く怪しい。

これは御用商人と役人が談合しているのでは……)

と、疑惑を抱いた。

 やはり、法華津屋が紙の商売を止めたいというのは、膨れ上がった御預かり金の返済を逃れるために、一芝居売ったのではと作之進は思った。

 寛政三年の歳の暮れ、作之進は横堀御番所を通り、大桜橋を渡り横堀通りに出た。

(ちょっと御用商人の店をのぞいて見るか)

と、真っすぐ町人町を下った。

 本町通りは師走でどこも忙しく、店の出入りが盛んである。

 御用商人の店が軒を並べ、御掛屋又兵衛、紙問屋の大阪屋、法華津屋「叶」の大店がある。

 作之進は、店に入らず魚棚町へ回った。直ぐにもう一つの法華津屋「三引」の店が見えた。漆喰塗りの大壁や生子壁が、往来するものを圧倒する。屋敷部分も壮大である。浜通りの土蔵には、大阪向けの荷物が、所狭しと収納しているという。

 国安川の雁木には、小舟が繋がれており、吉田湾に浮かぶ大阪向けの帆船に、法華津屋の荷物を積替える。

 魚棚町は魚屋の街で、数十軒の店が港の魚市場まで連なっている。鮮魚店の中には、遠く三間郷まで峠を越えて行商にゆく者もいる。今は、正月用の仕出し、蒲鉾などの練り物を造る仕事で、どの店も活気に満ちている。

 作之進は、浜通りの松並木をぶらぶら歩き、横堀通りに戻って来た。辺りは大夫暗くなってきたので、行きつけの居酒屋「宮長」で一杯やることにした。

 作之進は、ホウタレ鰯を肴に熱燗を呑みながら、下町の繁盛ぶりにややほっとしていた。

(両法華津屋とも繁昌しているではないか、他の御用商人も忙しくしている。紙の商売を止める雰囲気ではないぞ)

と、お酒のピッチが速くなった。

 店の中を見ていると、日焼けした連中二三人が隅の方で、何かひそひそ話で酒を呑んでいる。

 作之進は、見かけない連中だがと、耳をそばだてた。

 その中の一人が酒がすこし回ったのか、

「三引屋は大した羽振りじゃないか、明日は大阪向けに船が出るそうじゃが、わしらの紙をいい値段で売るんかいのう」

と言うと、もう一人の者は、

「今日卸した紙は、三引の言い値で買い取られ、わしらの手元には雀の涙しか残らん。だが借金は高利で、早く返せという、わしらは何の為に働いとるんじゃ」

と、周りを気にしながら声を絞っていた。

 やがて作之進が店を出ると、丁度桜橋を渡った籠が、横堀通りを曲がった。その籠は、料亭「菊屋」の前で停まった。

それを松の木の陰で見ていた作之進は、呟いた。

(あれはご家老の籠ではないか……)

 

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 (吉田町魚棚一丁目 松月旅館・2016.4.28撮影)

 案内板には「当屋敷は吉田藩御用商人・法華津屋三引高月甚十郎の本邸です。書院造り大広間及び奥座敷伏見城の遺構です。1765年に高月邸となり現在に至って居ります。旅館営業中、詩人野口雨情が泊まって直筆の掛軸があります。その他吉井勇丹羽文雄も宿泊され宿帳に記載されています。前庭、中庭、奥庭、になっており古文書もあります」と記している。