「沈みつ浮きつ」若き人の為に(7)

 慌ただしかった此の一年

昭和15年12月21、24日)

  亀三郎翁は慌ただしい昭和15年を辿っていた。2月には台湾へ旅行し、3月末に吉田町に帰省、7月から9月まで軽井沢に移住し、10月に入って上海、南京を旅した。東京には150日しかいなかったが、朝から晩まで電話にかかっているか、人を訪ねたり、会ったりして、会社の用事を聞いている時間がなかった。

「自分はガチャガチャした性質だから別に何も思わないが、他から見て実に可笑しく見える事だろうと思う。来年は、今年以上に変化の多い年ではないかと思われるから、余程気をつけねばなるまい。

 新体制、翼賛会、会社経理令、何々国策会社、何々条例等々、之を批評する者から云えば中々極端な言を為す人もあるが、我々は批評家の側でもなく、議論する側でもないので、政府の命令には服従して働いている。若し批政ありとせば、大なる政治家が出て来て之を矯正して、眞に国民が心服するように指導するのを俟つよりほか仕方ないと思って居る。石の上にも三年という諺があるが、この諺をよく玩味して行くことである」と語っている。

 翁は、近衛文麿内閣の新閣僚、平沼騏一郎内相就任について、新体制で行き過ぎた事を矯正される人事は、近衛公の大達観と評している。

昭和16年、17年は余程困難を覚悟しなければならない年だと思うと共に、一方には非常な面白味もあると思う。風浪怒涛は海上だけの専有物ではない。陸上にも濃霧も有れば風浪怒涛もある。これと闘って後、初めて天気晴朗な時の爽快なる味を嘗めることが出来るのである。

 各関係会社の諸君の多幸なる新年を迎えられることを祈って、御同様来年は一層緊張して働きたいものだと思う。26日の夜はもう一度神戸に行き、28日には例年の吉例たる伊勢大神宮を参拝して、大神楽を上げて諸君の健康を祈ろうと思って居る」と口述した。

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 昭和15年は日本の行方を決める重要な年だった。日独伊三国同盟が締結され、日本軍の南進が決定し、国民の生活物資の配給制が始まった。1月阿部信行(陸軍)内閣が総辞職、米内光政(海軍)内閣成立、7月第2次近衛内閣成立、東条英機陸相になる。

 この年、亀三郎翁は、社内の反対を押し切って陸海軍に1千万円を献金した。 

 海事研究家の住田正一が、昭和16年、第一公論社から出版した「聞くもの見るもの」には、亀三郎翁のことが多く取り上げられている。住田は大正6年、神戸の鈴木商店に入社した。大番頭・金子直吉の秘書として、山下汽船に出入りし亀三郎翁と面談したことがあるのだろう。住田は、亀三郎翁が昭和15年、軍に1千万円を寄付した時の感想を聞いている。

 翁曰く、『寄付というものは必ずしも、金を持って居るから出来るというものではない。寧ろ其の時ありたけのものを出すと云う気持ちにならなければ出来ない。

早い話が、僕が1千万円寄付したということは、1千万円しかないという事である、世間の人は山下は1億円の金ができたから、その1割1千万円を出したと考えるかも知れない。然しそれは間違いである。山下は1千万円しかないということである』

 話題は更に転じて

『元来僕は無一文から出発した、それが私の強みであり、身上である。無一文からその上の財産はプラスであるから、それを増やすとか、失うという事に対しては、気楽に考えることが出来る。

 僕は過去五十年の海運生活を考えてみると、幾度か幾度か難局に遭遇した、鉄道自殺をしようかとさえ考えた事がある。だが、其の時も思った、債権者は沢山に押し寄せて来る、然し何の債権者も金を返せとは言うが、事業を止めろとは言わない。だから自分は船舶業を固守し、持ちこたえて来たのである。債権者が事業を止めろとは言わない、金を返せと言うのであるから、死んでは相済まんではないか。

 人間は生死の境に立って、一番大切な事は心の構え方である。自分が無一文から出発したという事が、斯かる場合に於いても最も力強く働くのである。楽に決心することが出来る」と住田に述べている。

 住田はこの本に“貧乏人の強味”と題して翁の事を書いているが、最後にこのように締めくくっている。

――貧乏の家庭に生まれた事が人間として幸福であるという事はしばしば聞く話である。人世の出発点がマイナスであり、それからプラスに歩み出すのであるから努力に張合いがあると云った事があったが、その言葉がよく分るような気がする。

 考えてみると、やはり神様には目こぼしは無いようである。貧乏人には貧乏でなければ分からない幸福の境地が授けられてあるようである。――

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昭和17年出征兵士を吉田港桟橋で多くの人達が見送っている。

夫、息子を送るのであろうか、婦人の姿が多く見える。

(写真:河野哲夫氏提供)