西国の伊達騒動 6
吉田藩紙騒動(2)百姓一揆前夜
広見川上流の山間部の百姓は、紙の原料である「楮(こうぞ)」の木を栽培して生活の糧にしている。山奥には、マタギ、樵(きこり)、炭焼きも暮らしている。
百姓の中には、楮の木や畑を荒らす猪、鹿など狩猟に使う四匁の鉄砲を持っている者が多くいた。それは昔から土佐との境でいざこざが多く、侵略者に対する自衛のためでもあった。だが銃を持つことは一揆を起した際、藩に抵抗する道具にもなった。
作之進は、役目柄から山奥組の百姓らに酒を飲ませ、菓子を振る舞い気さくに話すので、地元の者には信頼が厚かった。
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年の暮れの落陽は早い、遠く西の空は真っ赤に燃えている。
明日は更に山を登り、一揆を企んでいる領域に入る、作之進は英気を養うため直ぐ布団に潜り込んだ。
三人の庄屋は、早速イビキをかいている作之進の布団を見て、
「鈴木殿はお若いのに、がいにしっかりしているのう」
「頼もしい限りだ、お奉行が作之進殿に、何でも仕事を任しているそうじゃが、たいしたもんじゃのう」
満天にキラ星が輝き、山の冷気がしんしんとする中、作之進の高イビキだけが山小屋に聞こえている。
翌二十一日早朝、作之進らは小屋を出た。
庄屋たちは自分の持ち場に分かれて行った。作之進と下役人らは昼過ぎにやっと高野子村に着いた。
冬とはいえ険しい山道を急ぎ上ってきたので、さすがに汗ばんでいた。番屋に着いて一息するうちに、村の見慣れた者が現れた。作之進が楮の出来を調べに時々山奥を訪ねるが、その時の百姓の一人だった 。
「鈴木様、今日は又どうされました?こんな年の瀬に何かありましたかのう」
作之進が何時も声をかけている者であるが、特別に芝居をしている様には見えない。
「別段何もないが噂を聞いて参った、小頭を呼んできてくれ」
と普段の口調で話した。
やがて年寄りの小頭役人三名が駆けつけて来た。作之進が一揆の噂を聞いてやってきた事を一通り話した。
小頭の一人が言うには、
「その噂は薄々知っていますが、百姓らも気の小さなものばかりで、大それたことはやりますまい」
作之進は、百姓一人では何も出来ないだろうが、大勢が集まると群集心理でどうなるか分からないと危惧していた。
「知っていることをすべて話してくれ」
と小頭の皆に目配せして言った。するともう一人の小頭が、
「川筋の者らが日向谷の奥を誘い出し、皆電(かいでん)越しで高野子を誘うと聞いたが、容易に誘いには乗らんでしょう」
作之進は、山奥までやって来て、直ぐには騒動の気配がないことは分かったが、百姓の願い事が何であるのか把握できていない。それで、
(詳しくお上に聞くことがあれば正月明けに願いをすればよい。願い事十が十ながら叶わぬ時は、郡奉行も御役の手前もあり間に立つつもりだ。そういうこともしないで、突然に訴え出て、罪人が出たとあれば、その願いは差し戻すことになる)
と庄屋らに念を押した。
この日、作之進は、小頭らに夜中、村内を見廻る様に申しつけ、延川村に止宿した。
また、庄屋の竹葉蔵之進、丈右衛門、嘉平治は、暮の忙しい時なので、前日に帰宅を許していた。部下の嘉久右衛門は川上村に、弥惣治は小松村にそれぞれ止宿させたが、楮の作業場など全く静かな様子を伝えて来た。
村に何の異変も感じなかった作之進らは、翌二十二日に山を下りた。
こうして吉田陣屋の街に戻った作之進は、居酒屋「宮長」で夜遅くまで呑んでいたが、
(鈴木様、そろそろお帰りにならないとお体に障りますよ)
という主人の声で目が覚めた。
外に出ると月夜である。すると東の遠見山から西の犬日山へ大きな星が流れた。何かの予兆か、はたまた酔いのせいであろうか……。
横堀番所を抜け、家中町に入る。お歴々の屋敷がつづく、家老・安藤継明の屋敷前を通り、本丁へ出ると、櫻田、郷、越智、村田、宅間、井上、飯渕、尾田の屋敷が続く、もう直ぐ中見屋敷にたどり着く。
(しかしあの文の女は一体誰だろう、山奥々と場所まで書いているのは、未然に一揆をやめさせたい一心からであろうか)
千鳥足で歩きながら作之進は、まだ考えていた。
(やはり2年前に泉貨紙を専売制にしたのがまずかったのか。最近では紙方役所の取締りも度が過ぎていると思う。山奥の更に奥から直訴するというが、あの辺は土佐藩との境だが、土佐者が百姓共をそそのかしているのか……、)
重税で困窮している農民、町民らが一斉にほら貝を鳴らし寺々の鐘を叩いた。千人の者が一斉に訴えたので首謀者が分からない。領主は要求をのみ一揆は犠牲者を一人も出さなかった。
土佐藩と接するこの山奥で一揆を企てるというのは、数年前にあった土居式部騒動や宿毛一揆を真似たものではあるまいか。
百姓どもに(徒党を組んで宗藩の宇和島へ訴えろ!)
と、知恵を付ける他藩の者がいないとも限らない。それとやはり宇和島藩の陰謀が絡んでいるのか?
作之進ら下級役人は、仙台伊達の流れをくむ藩士と違って、地元採用組で土佐者を心底きらっていた。
伊予の南宇和一帯は、戦国時代に土佐の一条家、長宗我部一族が山を越えて侵入した土地である。鬼北、三間の美田は長宗我部一族などが、乗り込んで収穫まじかの稲をきれいに刈り取って持ち去った。
=2018.3.22 ブロガー撮影=