西国の伊達騒動 14

吉田藩紙騒動 (7)一揆の始まり

 紙方役所の岡っ引き、提灯屋栄蔵は新法の下で、やりたい放題だった。その手下に遍路や乞食のように変装させ、百姓共の家へ改めと言って押し入り、どさくさに紛れて盗みを働いた。

 作之進は、昨年十二月二十一日に延川村で、夜中松明を振立て鉄砲を放って鹿狩りのように暴れている手下どもを見た。

(これは何事だ、周りを威圧するような大声を上げ、目に余る仕業ではないか)と郡奉行所につぶさに報告した。

 札付きの栄蔵は、百姓の憎みが多く、役所は栄蔵に吉田から出ないように申し渡した。しかし何かの間違いで栄蔵は出郷し、吉田に戻らなかった。 

 目付の江口円左衛門は井川御用廻りの折、山奥組に栄蔵がいなくなった事をそれとなく伝えた。村は別に何もない様子なので二月九日吉田に帰った。

 しかし悪い事は重なるもので、正月二十三日、紙方役所の中見役格、吟右衛門が、紙漉き村へ出向いて、紙は藩が残らずお買い上げすると申し渡した。吟右衛門は御測長柄組の足軽だったが、最近紙役所に取り立てられた。この男が喋ったのは、代官や作之進が百姓共に申渡した内容と違うので、益々百姓共の役人に対する不安がつのることになった。

 さて、吉田藩の山奥組は土佐藩と隣接している。日向谷村からひと山超えると土佐の梼原村である。梼原は土佐のチベットといわれたが、高知市から西に四十キロ程の距離である。千メートル級の高研山が国境の山である。

 梼原から多くの幕末の志士が輩出された。天誅組の首領格だった吉村寅太郎も庄屋の出である。

 彼の坂本龍馬土佐藩郷士で脱藩の折、この梼原を経由して伊予に入った。所謂「脱藩のみち」の名所である。

 作家・司馬遼太郎は「歴史上、梼原は僻地とは言えない。むしろ室町初期までは土佐を代表していた」と語っている。

 この地を領有していたのは梼原を開墾した津野氏で、室町中期の当主は津野孫次郎で、戦国時代は土佐守護代細川氏、土佐幡多郡一条家から攻められ、遂に戦国末期には長宗我部元親に滅ぼされたという。

 宝暦五年(一七五五)梼原の近くで起こった「津野山一揆」は伊予吉田藩紙騒動の先鞭をつけたものではないだろうか。

 この騒動の原因は、藩と御用商人が組んで木材、紙、鰹節などを専売制にして藩が金儲けをする。まるで吉田騒動と同じ構図である。農民の副業である紙や茶の利益を横取りする藩に、村々の百姓が怒り一揆が企てられた。

 土佐藩は商品ごとに問屋を指定した。吉田藩が行った楮の入山と同じで、藩はその問屋から運上金をとり御用商人に寄生する。商人は農民を支配し農民のくらしは凄惨なものになった。

 高知城下の通町に店を持つ御用商人の蔵屋利左衛門は、藩から津野山八ヵ村の商品買付け権と販売権を任され、侍分の資格が与えられていた。吉田藩の法華津屋のようなものである。

 蔵屋は、楮など山の産物を買い叩き百姓共を苦しませた。百姓共は蔵屋の専売権を停止してほしいと藩に訴えた。藩はこれを無視、むしろ百姓を弾圧した。これも吉田騒動と全く同じである。

 ここに梼原村の庄屋、中平善之丞が登場する。命を捨てる覚悟で一揆の中に入り百姓衆を指導した。

 時に高知城下に、

――津野山の一揆が城下まで押し寄せて蔵屋を襲撃する。

という噂が立った。

 藩は、先手を打って足軽隊を出して善之丞を捕縛した。その他二十数人が縛に付いたが善之丞が罪は自分一人にあると言い張り、彼らは釈放された。

 津野山一揆はムシロ旗を押し立てたのではなく、農民たちが幾度も寄り合い、いっそ幕府に直訴するか、他藩へ逃散するか談合を重ねていたのである。

これも吉田藩の土居式部の一揆未遂事件と似ている。

 所が土佐藩は、中平善之丞を密かに殺すようなことはせず、蔵屋利左衛門と公式に対決させた。

 善之丞はいちいち実証をあげ、蔵屋の暴利と私欲を糾弾した。弁解に窮した利左衛門はこれによって死罪となった。

 善之丞も法を破って一揆を集合させた罪で斬首の刑に処せられた。

 善之丞が刑死した日は風が強かった。やがて暴風雨となり地震が起こり津波まで伴なった。地元の人々はこれを善之丞のたたりとして「善之丞時化」と呼んだ。

(参考文献:司馬遼太郎. 街道をゆく 27 因幡伯耆のみち、檮原街道 ) 

 この事件の四十年後に吉田騒動が起きる。

 事件の発端は楮生産地、紙漉き村がある吉田藩の山奥組。

隣国土佐藩で起きた「津野山一揆」の梼原村までわずか十数キロの非常に近い所で発生している。しかも、藩、御用商人、百姓と登場人物もそっくりである。

 伊予吉田藩を揺るがす百姓一揆の首謀者は、土佐藩で起きた百姓一揆を真似たものか、はたまた土佐から吉田藩山奥に移り住んだ者が企てたものなのか220年経った今でも断定されていない。

 吉田藩上大野村に武左衛門という百姓が住んでいた。

 この男が、リーダーとなって一揆を主導した。これがいろいろな史実から定説とされている。しかし、この男の人と成り、事件の背景が明らかにされていない。

 上大野村は山奥組に属して現在の鬼北町日吉である。土佐に最も近いのは日向谷村で父野川、下鍵山村、上大野村などが土佐と行き来していた。

 日向谷からは高研山を越え梼原に、紙の原料の楮、三椏を運んでいた。

 この地に、土佐和紙の祖といわれた紙漉きの名人新之丞という職人が居た。

 彼は山伏の格好をして四国行脚の旅に出たが、土佐で病に倒れた。新之丞は長宗我部一族に助けられたが、そのお礼に抄紙法の秘法を伝え、更に一族らと共同で七色紙の製造に成功した。

 だが、理不尽な事件が起きる。新之丞が日向谷へ帰る途中、仁淀川を見下ろす仏ヶ峠で一族に斬殺された。土佐紙の起源となる七色紙の秘法が外に漏れるのを防ぐためだった。

 戦国時代とはいえ、藩の利益を守るため、隣国伊予の新之丞が犠牲になるとは惨い。紙の村、日向谷にはこの様な悲話が残っている。

 明治二十二年、父野川・上大野・下鍵山・上鍵山・日向谷の五ヶ村が合併して日吉村が誕生した。初代村長の井谷生命は上大野の武左衛門について古文書や村の故老からの聞き取り調査をもとに大正六年、『嗚呼武左衛門翁及宇和史ノ概要』を発行した。

 武左衛門は日吉の義農として崇敬顕彰されている。

 寛政五年二月九日夕刻、戸祇御前山に集結した百姓六、七十名は、父野川方面へ乗り出した。いよいよ百姓一揆の始まりである。

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      (日吉夢産地にて 2018.3.22撮影)