「沈みつ浮きつ」若き人の為に(8)最終回

 明月は波に沈まず昭和16年7月1日)

 

 亀三郎翁は(若き人の為に)と題し、昭和15年を中心に口述しているが、最後の章が、昭和16年7月1日となっている。

 時代は太平洋戦争の直前で、6月には汪兆銘(精衛)が来日し、高輪の山下邸にも来て政府要人を交えて会食している。

前年には亀三郎は、重慶から逃れた汪を自船「北光丸」でハノイから上海に移送しており、汪はその恩に対し感謝を表明した。

亀三郎は刎頸の友秋山真之と共に、中国の革命家・孫文を重要な人物と見込んでいた。孫文が病死して、その遺志を継いだのが汪兆銘だった。

 亀三郎翁は、今後の日支関係はどうなるか。独英の戦争に米国が何時参戦するのか、独逸が英国に上陸作戦を開始する時かその前か?独逸はソビエトに戦争を仕掛けたが、日本はソビエトに対して如何にするのか、全世界的に問題は混乱してきたと危惧していた。

 翁曰く、「我々の大なる禁物は、無暗と取越し苦労をして行き詰った考えをする事で有る。私は茲に於て断言したい。我が日本としても、又我らに関する仕事の範囲に於いても、決して行き詰るなどという事はないと確信して居る。それは何故かと云えば、日本が支那に対しても、英米に対しても、独ソに対しても、蘭印、印度支那其の他に対しても、決して横紙破りの事を考えて居ない。支那に対する聖戦は何事を物語っているか。蘭印に対しては如何なる筋合に於て要求して居るか。日独伊の枢軸はどうして出来たのか。凡て天地に恥じない正道を踏んで居る。

 そして我等は、海運、石炭、造船、築港、植林、皆一つとして国家の基礎工事たらざるなき筋合の仕事に励み、少しも私心を差し挟んで居ないのである。

 天は結論に於て正しきものを佑け、自然は必ずや正しきに終わるものと思って居るから、この断言をなすのである。汪主席が今日在る所以から云ってみても、百万の兵を有する蒋介石に対して、一兵を有せざる汪氏が互角の相撲を取り、而して我が日本朝野の支援を得るに至ったことも、その思慮が東亜全面平和に対する正しき発心から起こったからであると思う。

 私は、もう十日もすれば例年の如く軽井沢ドック入りをする時期に到達するから、その数日間各方面の識者に対して問いを発して見たが、部分的にはいろいろ懸念すべき事実もある。

憂国の士としては、国を憂うる部分のあることも尤もだと思うが、我等は、農夫が田畑を耕し、職工がその職に働くが如く、国家の事業の或る部面に働いて居るものであるから、政治家として国を憂うる人などなど思考行動を共にすることは絶対禁物で、種々なる取越し苦労を避けて、運命は天に任せ、最善の努力をしたいと思う」

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 亀三郎翁は、『沈みつ浮きつ』の自序に「近衛女史が、私の気合をよく呑み込んで、或いは会社に或いは高輪の宅に、或いは夏の軽井沢に、冬の熱海に、よく私に協力して下さった事を感謝したい。若し女史の巧みな誘い出しがなかったならば、私はこの半分も記憶を辿ることは出来なかったであろうと思う」と昭和18年1月30日、湘南大磯野荘にて著者と、書いている。

 

 

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愛媛県立吉田高等学校の「吉田三傑資料室」には

『沈みつ浮きつ』(昭和18年発行)の本が陳列されている。 

中央は徳富蘇峰の直筆(2016.4月撮影)