西国の伊達騒動 8

山家清兵衛(やんべせいべい)事件

 四国の三大お参り所は、四国八十八カ所参り、金比羅参り、和霊さん参りと言われている。

 宇和島市の「和霊神社」は、伊達宇和島藩・家老の山家清兵衛を祀っている。

 西国の伊達二藩には様々な事件があったが、宇和島藩の創成期に起きたこの事件は、仙台の伊達政宗を激怒させた。

 政宗は、息子秀宗の宇和島入部に先立って、忠誠剛毅で文武に通じ、理財にも明るい部下「山家清兵衛」を宇和島に送った。

 慶長二十年三月、山桜が咲き始めた頃、清兵衛は秀宗一行を出迎えた。

 宇和島藩十万石の伊達家には、家老桑折左衛門、桜田玄蕃など高給取りが揃ったが、財政を預かる清兵衛は、新天地での運営に頭を悩ました。その上、仙台本藩の政宗公から当座の運転資金として六万両を借りている。

 几帳面な惣奉行の清兵衛は、

(大幅な減俸を行い政宗公へ返済をする)

と殿様らを説得した。その厳しい施策に家臣から、

(そんなに急いで返す必要があるのか)

(百姓共から搾ればよいではないか)

などと、喧々轟々の声が上がった。

 清兵衛は、新領民が前領主の重税で、疲弊困憊している状況を知っていた。これ以上の重い年貢を百姓に課せられない。一揆が起きてお家が改易にならんとも限らない。 

 政宗は、京や大坂での栄華な生活になれている息子秀宗に、

「清兵衛の言うことはわしの言葉と聞け!」

と、仙台本藩で算用頭をしていた清兵衛を、監視役に付けたのである。

 元和三年(一六一七)正月、仙台本藩から借金六万両返済の催促が来た。清兵衛は大広間の御前会議で、政宗公御存命中は三万石を献納すると衆議に反して採決した。

 政宗公の息のかかった惣奉行に誰も反論できない。

 清兵衛は、藩士の質素倹約を励行、さらに御用達米を禄高の割合で藩に差し出させた。事実上の減俸で家老桜田玄蕃など禄高の多いものは大反発をした。

(おのれ、清兵衛にくし)

 家中大多数の反山家派が、清兵衛を排斥しようと、殿様に讒訴(ざんそ)した。

 元和六年六月二十九日の夜、十数名の刺客団が、山家邸を襲った。清兵衛は蚊帳の中で殺され、無残にも四男は池に投げ込まれた。子供、忠僕など八人が惨殺された。山家清兵衛公頼、御年四十二歳だった。

 この報に政宗は、

(父命で補佐申し付けた清兵衛を何等過ちなきに、家中の者私怨により討ち果し、秀宗之を不問に付すとは父を蔑如せる罪大なり、公儀に向かって宇和島藩改易仰せつけらるべき願い達せしにつき、追って沙汰あるまで謹慎いたすべき)

と、厳達した。

 その上で政宗は、時の宿老・板倉周防守重宗に、

(秀宗は若輩浅慮、到底一藩を率いる器量なく、改易仰せ付けられれば有難き仕合せ)

と上書した。

 しかしこれは政宗の知恵で、幕府へ先手を打っての一芝居、公儀格別の思召しありと踏んでいた。

 数奇な運命に翻弄された秀宗は、ついに配流か隠居を覚悟して只々謹慎していた。

 政宗は、清兵衛の霊が(おのれ一人の為に改易となっては罪障消え難し、秀宗公、一家中を救い給え)と夢枕に立つので、

板倉周防へ、

政宗存寄り有之今暫く秀宗行跡監視致すべき」

と上書を取り下げた。

 これで宇和島藩は改易取り止め、お家安泰となった。

 非業の死を遂げた山家清兵衛の怨念か、十二年後、政敵桜田玄蕃は秀宗夫人の大法会に、本堂の梁が強風で倒れ下敷きとなって即死した。

 その後も、事件関係者が次々に海難・落雷などで変死した。

 また慶安二年(一六四九)の大地震、寛文六年(一六六六)の大洪水、享保の大飢饉などの天災や、二代藩主宗利の男子が夭逝したことも清兵衛のたたりと言われた。

 流石に秀宗も清兵衛らの霊を慰める為、児玉明神(みこたま)として祀った。

 その後、承応二年山頼和霊神社と改称され、享保十三年に和霊大明神となった。

 霊験著しく参拝者のあとを絶えず、伊予一円はもとより四国中国九州から水難疫癘(えきれい)を排除し、福徳を授かると現代まで和霊神社は参拝する人で賑わっている。

 

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  (和霊神社坂本龍馬脱藩140年記念/2015.9.26撮影)

*土佐坂本家の屋敷神も和霊神社で、宇和島の本神社から分祀した。文久二年に龍馬が土佐藩を脱藩する時、土佐・和霊神社に祈願したという。

山家清兵衛を祭神とする和霊神社分祀社は全国に200ほどある。