西国の伊達騒動 9

三代吉田藩主と松の廊下事件

 元禄十四年(一七〇一)三月十四日、江戸城松の廊下で起きた事件は、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が高家吉良上野介義央に「此間の遺恨覚えたるか」と刃傷に及んだ椿事である。

 これは西国伊達藩の騒動ではないが、この事件に伊予吉田藩三代目藩主の伊達左京亮宗春が係わっていた。

 この年、勅使饗応役は浅野家で、伊達家は院使饗応役だった。

 公家様の接待役は、一万石から七万石程度の外様小大名が務めており、伊達宗春は、霊元上皇の院使として江戸に下向する清閑寺熈定の饗応役に任じられ、その指南役が吉良義央であった。

 この有名な事件は、忠臣蔵赤穂浪士討ち入りとして、芝居や映画、TVで国民の人気を博している。

 ブロガーは、最近二つの情報を知り、この事件の背景が少し分かった気がする。

 一つは、平成二十七年(二〇一五)、宇和島伊達四〇〇年祭記念として吉田町公民館ホールで上演された『新説・松之廊下~吉田伊達家の忠臣蔵』という芝居での話。

 この芝居は、監督・大西正一氏で、脚本は郷土史家の宇神幸男氏、演者九人は総て素人の地元市民だった。

 芝居は、伊達家と浅野家は「不通大名」の関係だったという筋書きだった。芝居の中で浅野長矩が、伊達宗春に「この四国の城なし大名が云々」と見下しているシーンがあった。

 「不通」の伝説を調べると根が深く、広島藩主の浅野長政仙台藩伊達政宗の時代まで遡る。政宗は、豊臣五奉行の一人である浅野長政にいろいろ頼みごとをしているが、中々聞いてくれない。長年そのような状態が続き、遂に政宗は堪忍袋の緒が切れ、長政との絶縁を宣言する。

 もう一つの情報は、昨年、松山市で開催された「秋山好古生誕祭」で、母校吉田高校の元校長から聞いた話である。

 この校長は、自書『トランパー』に関して、山下汽船に入社した石原潔(石原慎太郎裕次郎の父親)が地元出身の人で、石原家の末裔が大洲に居られるという事と、突然、「松の廊下事件」に関する話を始めた。

 それは、校長が大洲市新谷の出身で、地元の歴史に詳しく、大洲藩の分家新谷藩一万石の殿様が、院使饗応役を務めた事があるという。しかも刃傷事件の前年にお役目を終えたばかりだった。

 校長は、新谷藩が吉田藩と親しく交流があり、伊達家に入れ智恵をしたのではという事であった。

 宗春は此の時、十九歳で江戸詰め、まだ吉田入りしていない。多分、饗応役に決まってすぐに、吉田藩家臣は新治藩側に、種々アドバイスを求めたのではないだろうか?

 元禄時代の松の廊下事件は、宗家が不通だった為、赤穂・浅野家と吉田・伊達家が、旧来の慣習を守り、饗応役の情報を十分に共有することが出来なかった。それが事件の一因と推測される。

 また、吉田藩は、院使饗応役を務めた新谷藩が、近隣の大名だったという幸運に恵まれた。

 親交のある大洲新谷藩が、初めてお務めする弱冠十九歳の宗春のブレーンに、高家吉良への進物のことや、上野介の性格まで教授した。それで吉田の若殿は、無事お役目を果たしたのだろう。

 宗春は、正徳三年(一七一三)八月十五日、官位を和泉守に改め、享保十年(一七二五)十二月二日に若狭守となった。諱を宗春から村豊(むらとよ)に変えた。

 伊達浅野の両家が完全に和解したのは、平成六年(一九九四)、四百年もの間の確執がやっと雪解けとなった。

 『新説・松之廊下~吉田伊達家の忠臣蔵』のDVDが、田舎から贈られ拝見したが、素人衆の芝居は中々大したものだった。

 特に吉良上野介役は、吉田高校の元PTA会長で玄人はだしの演技だった。

 芝居の冒頭は創作であろうが、赤穂浪士吉良家討ち入り後、大高源吾が伊達屋敷に現れた。

 大高は、伊達家家老に十二月十四日の句会、茶会が開かれることを教えてもらった謝礼をし、俳人源吾(子葉)は、

「日の恩やたちまち砕く厚氷」と詠み、宗春に下の句を求めた。

宗春は「雪うち払い咲く寒椿」と返歌した。

 今、東京両国橋の東側の袂に、本懐を遂げた後の大高源吾の句碑「日の恩や……」が立っている。

 因みに、大高源吾辞世の句は「山を裂く力も折れて松の雪」

 

 *この芝居は、 ユーチューブにもアップされている。

【新説・松之廊下~吉田伊達家の忠臣蔵~】

 

 出典:  (ユーチューバー citrus unshinu)