天明の土居式部騒動(2)
翌十日、作之進は元宗村権現谷の満徳寺へ行って、村の様子を聞いた所、この村は至って静かである。
作之進は更に、兼近村辺りまで足を延ばし、方々聞き回ったが詳しい事は分からなかった。元宗村へ戻り庄屋所で庄屋・彦之進と夜遅くまで村々の情報を聞いたが、何も変わった様子はないという。
作之進は式部に、
(十一日朝、宮野下まで来てもらいたい)と文を送った。
しかし、翌日の昼前まで待ったが式部は来ない。
作之進は、式部の動きに不信を抱いたが、会いたくないのであれば仕方ない、早々に三間村を発った。
吉田表に着いて、中番所橋を渡り、御持筒組を抜け自宅に立寄ったが、臨月に入っている妻は産気づいていた。
「うーん、暫く待っておれよ、すぐに産婆を呼んでまいるから」
作之進は三間の一件を直ぐに奉行に報告しなければならず、妻を産婆に任せて奉行所へ向かった。
代官は、作之進が九日出立して直ぐに、別動隊を集め捜査に出ていた。作之進は代官自ら出向くとは、新たな内通があったのだろうか、三間を発つのが早かったと悔やんだ。
作之進が、やっと我が家に帰るとすでに女子が誕生していた。
直ちに女子出生で血忌(ちいみ=妻が出産した場合の夫の服忌)の届を出して家へ引きこもっていたが、十三日夕、明日より出勤せよと知らせがあった。
十三日には土居式部も作之進の所へ来て、
(この度の噂で、三間まで来て寄宿したことは誠にお気の毒であった)と言うので、
(追々相談もあるので、先ず一両日は吉田表に逗留してもらいたい)と言って、小頭・市左衛門方に逗留させた。
十四日、作之進が出勤すると、代官は吉田を出てから昼夜をいとわず捜索をしたという話しだった。代官は、詳しくは言わなかったが、相当な情報を得たものと作之進は推測した。
十五日、奉行所で評定があり、
(式部は指示があるまでは逗留する様に)
と目付衆より市左衛門へ命が下った。
しかし式部は、不穏な気配を察してか、すでに吉田を出て三間へ帰っていた。
作之進は、式部を取り逃がしてしまう失態を恥じたが、時すでに遅しである。
話は急展開するが、前から不審の疑いをかけられていた宮野下村の萬助と言う者が、村を出奔したという急報が入った。
奉行は不審者を直ちに逮捕するよう部下に命じた。
緊急の捕り方を組々から呼び寄せ、夜八つ時(午前二時)全員揃ったところで出発、七曲峠にて捕り方を手分けして捜索に当たった。
作之進は明六つ(午前六時)時分、宮野下村へ着いた。直ぐに、與兵衛、勘右衛門、磯七を捕らえ一味と思われる数名を捕縛した。暮れ時に吉田へ連行し、連日の取り調べとなった。
土居式部は小頭・市左衛門より急に呼び出されたので、慌てて神社を出た。だが、市左衛門は能壽寺村で式部を見つけ、直ちに腰の物を預り、腰に縄を付け連行した。
戸雁村と出目村にも捜査が入り、出奔していた萬助も程なく逮捕された。
先日、作之進が式部宅に行って様子を伺っていたときに、一杯機嫌の式部が、
(何の蚊のと数々言わなくても、先年の通りに宇和島御一致になればよいのだ)
と意味不明のことを言っていたが、これが後年に起こる百姓一揆の予兆であったとは、作之進は気が付くはずもなかった。
この式部騒動は、吉田藩三万石分知に絡んでいると思う。
もともと宇和島藩の領地だった三間郷の百姓は吉田藩の重税にあえいでいた。そこに、三島神社の土居式部と庄屋の樽屋與兵衛が農民を救済しようと宇和島藩への越訴を企てたのである。
三間の領民は、昔の領主宇和島藩の統治を望んでいたというが、越訴という手段に農民でもない一介の宮司が命を懸けるものだろうかと、作之進は考えていた。
逮捕された式部と、萬助の二人はその後、獄中死したと伝えられているが、吉田藩の厳しい拷問にも口を割らなかった。騒動の背後に何らかの陰謀があったのではなかろうか。
作之進は、「庫外禁止録」で面白い事を記している。
…いろいろ吟味の御用が多く野生(作之進)等、夜分に寝るより外に在宿は致さず、それ故、出生の女子七夜には名も付けず、
三七夜目に名を家と付け申した。吉田にて七夜に名を付けぬ子は類も有るまじきかと存候、これも記し置き候事。…
***
ブロガーは先年、三嶋神社を見学しようと三間町へ行った。小雨の降る日で、入口には常夜燈があり宝暦3年と刻まれていた。
階段を登ろうとしたが、見上げれば100段以上ある。とてもじゃないが、足が悪い上に雨である、本殿を見ることなくここで断念した。
過日、三間の英雄・土居清良の物語をブログに載せたが、清良の末裔が三嶋神社の宮司・土居式部だったとは、何かの因縁を感じる。
(吉田町御殿内、吉田藩陣屋址に簡野道明図書館が建った)
=2016.4.28 ブロガー撮影=
陣屋の正門に戸平門があり、簡野道明が勉学で通った場所だが、今は門の石組が残っているだけである。陣屋には御郡所、御代官所、御兵具蔵があったが、廃藩後は全ての建物は無くなり、今では吉田陣屋跡という石碑があるのみ。