西国の伊達騒動  2

伊予吉田藩の起こり

 西国もう一つの伊達家、伊予吉田藩は、宇和島藩初代藩主の伊達秀宗が、五男宗純に三万石を分知したのが始まりである。

 宇和島に入部して四十年が過ぎた明暦三年(一六五七)歳老いた秀宗は、徳川幕府御朱印のもと、溺愛する息子宗純に宇和島十万石の内から三万石を分け与えるという大盤振る舞いをした。

これが百数十年後に起こる「吉田騒動」のタネになるとは知る由もない。

 宗純は、父親から宇和島藩領三間郷の豊穣な米処や、和紙の原料である楮(こうぞ)、三椏(みつまた)が採れる山奥に加え、宇和海の豊富な水産物に恵まれた海辺など優良地を与えられた。

伊予吉田藩「御引渡覚」によると、本高三万七石六斗八升、物成一万六千六百十一石四斗、浦分二十九浦、里分五十二か村と記されている。

 分知された領地は、宇和島藩と共有する飛び地もあり、その後両藩の境界をめぐる紛争は絶えなかった。 

 伊予吉田藩は初代宗純から九代宗敬まで二百十五年間藩政を布いたが、その間に藩を揺るがす大事件が寛政五年(一七九三)に起こった。

 寛政年間と云えば、江戸幕府が開かれて百九十年が過ぎて明治維新まで約七十年、江戸後期に差し掛かっていた頃、吉田藩主は五代目伊達村賢(むらやす)、六代目伊達村芳(むらよし)の時代だった。

 この大事件は「吉田騒動」や「武左衛門一揆」といわれる百姓一揆で、藩が御用商人と組んだ紙の専売制が、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に苦しむ山奥組と呼ばれる山間部の百姓らに負担を強いるものとなり一気に領民たちの怒りを爆発させた。

 だが、背景には三万石分知に絡む宗家宇和島藩の思惑が見え隠れする。元禄九年(一六九六)に七万石が十万石に高直しになったといえ、宇和島十万石の格式を保つために財政難は永年の課題であった。

 吉田藩は、この騒動を穏便に鎮めなければならない。事が大きくなれば江戸幕府に聞こえ、お家の改易か、さもなければ宇和島藩に吸収されかねない。

 この事件に係わる公式文書が、何故か宇和島市や吉田町にはない。町の歴史文献は伝聞や言い伝えで、吉田藩の下級武士鈴木作之進が書き留めていた「庫外禁止録」や、元組頭宅屏風の下張りから発見された文書が史料として残っているだけである。

 藩の危機存亡に吉田藩士はどう立ち向かったのか、史実、伝聞を参考に事件を辿った。

中見役鈴木作之進という男 

 鈴木作之進は、伊予吉田藩奉行所の中見役だった。

 郡奉行所は郡目付を兼ね、領内の行政に当っていた。奉行の下に代官、在目付、郷目付、中見、井川方があり、庄屋は村浦の治安に努めていた。

 伊予吉田藩は街の中央に「横堀」という運河を造り南北を区切った。北の山の手は武家が住む家中町、南は町人町という町割りになっている。北側の石城山麓に殿様が住む陣屋を造り、国安川で家中町と仕切られた。

 町人町の水際には水軍基地の港を造り、参勤交代の御座船を繋いだ。町の東西には山が迫り、三万石の中心部はごく小さな陣屋町だった。

そもそも分知前は、宇和海の潮が入る葦(よし)の原だったが、周りの山を削り湿地帯を埋め立てた。

(思いがけずの新田が出来た 出来た新田に蔵がたつ)

と唄われ「吉田(よしだ)」と命名された。 

 鈴木作之進の住んでいる所は、家中町の本丁を上った突き当り桜馬場の近くにある中見屋敷である。奉行所は国安川の橋を渡った所で、喜佐方村へつながる潮入り水門の上にあった。

 

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吉田町「横堀」桜橋の向こう側が家中町、手前が町人町

     (ブロガー2016.9.21撮影)