西国の伊達騒動 10

吉田藩紙騒動(3)法華津屋 

 さて、話を紙騒動に戻すと、作之進が活躍する吉田騒動は、江戸後期にかかる頃であった。

 江戸初期、伊予吉田藩が発足する前、寛永十年(一六三三)には鎖国令が敷かれ、それ以降、外様大名は参勤交代の制度化で、莫大な経費の捻出に四苦八苦していた。

 いつの時代も、そのつけが回るのは下々の百姓らである。藩の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)と度重なる享保天明の大飢饉で吉田藩の百姓共は悲惨を極めていた。

 吉田藩は財政立て直しのため、製紙事業を専売制にして、利益を揚げんと躍起になった。

 特産の泉貨紙(せんかし)は楮が原料で、吉田藩領の山奥組は楮の栽培と紙漉きが生活の糧となっていた。

 吉田騒動の二十年前、安永元年(一七七二)に、楮の仕入れを村ごとに御用商人を指定するという規制が行われた。

 吉田藩の御用商人に、法華津屋という大店があった。

 法華津屋は、吉田藩分知の頃から開業しており、元は宇和島藩士、高月小左衛門の子孫で、「叶」を屋号とする高月與右衛門と「三引」を屋号とする高月甚十郎の両家が幅を利かしていた。

 他に大阪屋又之進という商人が居たが、この三人が所謂「入山」と称して、山奥組の目黒村・吉野子村・上大野村などの村々は、この御用商人にしか楮を卸せなくなった。

 これでは百姓はたまったものではない。紙の原料が指定の三商人しか売れなくなり百姓は、買いたたきで困窮した。そもそも山奥組の百姓は、副業に紙漉きをやって家計の足しにした。

 昔の宝暦年間(一七五一~一七六四)には、和紙を買う商人は十人ほど居り、売買も自由に出来た。しかし専売制になり段々廃業する店が出た。

  紙漉きは設備に金が掛かる、諸々の費用を楮元銀と称し御用商人が百姓共に貸し付けた。

 初めの頃は、庄屋百姓が津出し(年貢納入)や楮元銀の返済で吉田表に来た時、商人らは山奥組の者をもてなした。

 吉田藩陣屋の町内は、お祭りがあると近郊から大勢集まり大変なにぎわいだった。

 藩祖の宗純公は、寛文四年(一六四四)南山八幡神社神幸祭として「吉田祭禮」を始めた。

 お祭りには、武中町の藩士も「御用練り」、「御船」で粛々と練り歩いた。また、町人町の八ヵ丁から繰り出す山車は贅を凝らし、豪華絢爛に町内を曳きまわした。

 祭禮には、山奥組の庄屋連中も法華津屋から、接待をうける良き時代があった。

 所が、吉田藩の財政が段々と厳しくなり、和紙の専売制を敷いたため、貸主の御用商人は手のひらを返したように、高慢な態度をとるようになった。

 楮元銀の利子を上げ、百姓の貸金取り立てに駕篭(かご)に乗り、庄屋所ではまるで代官のように座敷に詰めた。その上、店の手代を使いにやり、庄屋や組頭を挨拶に来させた。

 百姓は、丹精込めて育てた楮、三椏を指定の「入山」にしか卸せない。紙漉き百姓は指定の商人から原料を仕入れ、何工程もの作業を経て和紙を造る。

 その一連の仕事が専売制では百姓の取り分がない。おまけに紙漉きの設備資金は御用商人が高利で取り立てる。

 現代では、独占禁止法で禁止されている優越的地位の濫用で、摘発されるが、この頃は、弱い者が痛みつけられる封建時代だった。

 専売制が始まった安永年間に、高野子村で和紙の抜け売があった。役人が法華津屋「叶」與右衛門の手代と、高野子村の嘉膳太夫を取り押さえ吟味した所、高野子村の紙を他所の紙と偽り「叶」の手代に売ったと白状した。

 金回りが悪くなった紙漉きは、こっそりと高値で買う他の商人に抜け売で凌ぐしか仕方なかった。 

 さて、安永から二十年後、寛政の始めに、鈴木作之進が、郡奉行の中見役となって山奥組に度々出向くことになった。

 作之進は、気さくに百姓共に声をかけた。

「どうだ、ことしの楮は? 」

と村々を聞いて回った。紙漉きの状況を調べるのは自分の役目ではないが、藩の財源が紙に頼っているので気にかかっていた。

 ある日、作之進は山奥組方面に出掛けた。吉田藩陣屋町から東の山奥までは険しい山々が続く厳しい道である。二三日は逗留することになり、出目村の番所で村々の庄屋、組頭に会って世情のことなど情報を交換した。

「両高月屋には困ったものだ……」

と、まず作之進が口を開いた。藩の内情を漏らすのに躊躇したが、信頼する連中なので、話を続けた。

 「法華津屋の叶、三引は、もう楮の仕入れは出来ないと申すのだ。最近は村々の紙が少なく、借金の取立ても滞っている。それと町内の大火事で出費が多く、難儀していると嘆いている」

 「そうやのう、吉田の街は百軒も焼けてがいなことやったそうで、宮野下の者がいうには西の空が赤く染まったそうな」

と、興野々村・庄屋の新次郎は、大火事の話をした。

 吉田の大火事は、天明年間に家中町本丁の松下、玉造、郷六、村田などの武家屋敷が並ぶ一角から出火し、北は御殿前から南の本丁を下った所まで類焼した。

 寛政二年八月に、魚棚町大洲屋から出火し魚棚三丁目と本町三丁目の二十四軒が燃えた。

 寛政三年十月には、本町一丁目塩飽(しわく)屋長右衛門の後家の家から出火し、本町一丁目二十三軒、裡町一丁目四十軒、二丁目二十二軒を焼失し、更に大工町裡の御弓之町屋敷まで類焼する大火事となった。

作之進は更に続けて、

「その法華津屋が申すには、大坂方の借金も膨らんで、いざ御用の時には財政に差しさわる。このままでは楮の仕入れは出来ないので、もう紙の商売は止めたいというのだ」

 庄屋らは法華津屋がえらい事を言うもんだと、呆れかえった。

 

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(左:法華津屋 三引本店/魚棚1丁目の店舗部分の建物を復元)

 (右:三引高月家 鬼瓦/魔除けと装飾を兼ねている)

  =2015.5.6ブロガー(国安の郷)で撮影=