吉田藩紙騒動 (6)百姓願い事
十一月の御仕法が発令されて以降、十二月四日に紙方役所は、紙の運搬方法など細則を出した。さらに楮の値段を決め、役人が出向いたときの賄事を定めた。
だが、百姓衆を激怒させたのは、役所が御小人組の栄蔵など数名を用い、紙漉き村の抜け売などを厳しく捜索させ、その手下に忍びの者を使い、盗人のよう百姓の家に立ち入れさせたことだった。
栄蔵という男は、元土佐者との噂であるが、吉田裡町の職人長屋で提灯張をやっていた。最近は上方から、安い紙で作られた安価の提灯に押され商売を止めていた。
今度の御仕法で、何故か紙役人から声が掛かり、長屋の浪人や無頼の者を引連れ、役所に召し抱えられていた。
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さて、これまで紙騒動のネタを延々と書いてきたが、いよいよ、伊予吉田藩三万石を揺るがす大事件が勃発する。
寛政四年師走半ばに、鈴木作之進が山奥組へ出向いたのは、紙漉き百姓共の不穏な動きを確かめるためだった。
山から帰った作之進と入れ違いに、代官・岩下萬右衛門が部下を引連れ吉田を発った。二十一日より三間の音地村で様子を探り、更に広見川の川筋村から山奥組の村へ入った。
二十六日、在目付江口円左衛門と渡り方の二人も音地村へ出向いた。
もう一人の代官・平井多右衛門は、代渡り方と足軽二人を従い、内深田村を捜索して川筋へ入った。在目付助役の二関古吉は足軽二人と出立した。
吉田陣屋町の者は、郡奉行所から二人の代官や多くの藩士が次々に出立するのを見て、何事が起ったのかと、役人たちの姿を心配げに見送った。
二十九日夜半過ぎ、山奥の川上村で警戒する岩下萬右衛門から書状が到来した。それによると、
(正月元日に、百姓共一統は出立すると、延川とどろへ申し次ぐ者がある、直に作之進は山奥へ参るよう)との仰せである。
作之進は、
(まさか、元旦に事を起こすとはどうしたことか)
と驚いたが、急いで大晦日早朝に出発した。
平井多右衛門、二関古吉は報告の為一旦、二十六日に吉田へ帰ったが、その外の足軽たちは村々に残った。
川上村へ到着した作之進に、岩下萬右衛門は、
「昨夜川上村の者を入念に取り調べたが、利根酒屋より上には申し次ぎを聞いたものはいない。川下も同様に知らないという、申し次ぎは噂かもしれない」
と、語ったが、作之進は多くの役人が長逗留しているので、百姓共はじっと息を潜めていると思った。
結局、山奥は何の異変もなく静かな大晦日となり元旦を迎えた。しかし作之進は警戒のため暫く止宿せざるを得なかった。
年が明け寛政五年の元日、作之進は、庄屋らとの挨拶もそこそこに上鍵山村の光徳院へ行った。修験者が何か情報をもっていると思いこの村に止宿した。
作之進は、この山で修行する山伏から耳寄りな話を聞いた。
山奥組は上大野村、下鍵山村、上鍵山村、父野川村、日向谷村、高野子村など十カ村がある。
山伏は、修行でそれらの山村を通るが、百姓共がなにやら藁を打って大綱を作っている。それも端には輪っか、一方は節として拵えている物を見たという。
(どうも村人の様子がおかしい、鎌や斧を持って何か事を始めようとしている。これに従わないものは家を焼き払う、打ち壊すと申し合わせているようだ)
と山伏は作之進にそっと耳打ちした。
作之進は、以前山に来たときは平穏だったが、この話を聞いてやはり一揆の噂は本当だったのかと、山奥の急変に驚いた。
五日、三間川之内村の庄屋勇左衛門が、慌てた様子で内深田村へ来た。
集まっている各村の庄屋に語ったのは、
(百姓衆から願い事があると聞いたので、早く願書を出せと申したら何処からもその申し出がない)
これは何かあると思って相談に来たのだという。
内深田村の庄屋竹葉蔵之進は、この村に来ている代官の平井多右衛門へ、この情報を早急に知らせた。
翌六日、平井多右衛門よりの書状が作之進へ届いた。それによると、
(六日明け六つ時、百姓共は山越にて山奥より奥野川へ出立すると小頭権蔵へ知らせた者があり、作之進は川筋通りを見張るように)と書かれている。
作之進は、一揆の動きが方々で聞かれるので、何とかして首謀者を見つけたかった。日頃声をかけている百姓も知らぬ存ぜぬで、糠に釘、取りつく島がない。
作之進が、川筋通りを探索している時、「ちょんがり」という門付け芸人が、この度の様な悪説を門々に語り歩いている情報を得た。
このちょんがりは、虚説を流している土佐者かどうか分らぬが、作之進はこの男を早々に村から出るよう部下へ指図した。
七日朝六つ時、中見役敬蔵の書状が、代官岩下、中見鈴木の居る小松村へ届いた。
それは、郡奉行の小島源太夫、目付の簡野伊兵衛が三間音地村にきて、山奥組の百姓共の願い事を聞くという内容だった。
鈴木作之進は、奉行が直々に百姓共の願いを聞くとは、事の重大性に改めて気を引き締めた。
奉行らは、庄屋衆から百姓共の願い事を聞き、後日、沙汰すると申渡し吉田に帰って行った。
早速、藩で評議が始まったが、家老の面々は山奥組、川筋の百姓の不穏の動きを奉行から聞いて知っている。騒動が起きることは避けたいと考えていた。
特に、末席家老の安藤義太夫は、百姓共の度重なる陳情を奉行らから聞いており、疲弊した百姓共の民力休養が必要と力説した。
しかし重役の中には、今まで百姓共が法華津屋と売買したのは商売上の取引で罪とはならぬ、紙役人の厳しい処置は各々の職責を全うしたまで、年貢についても今になって堪えられぬ道理はない、という強硬論もあり評議は難航した。
だが、本当に百姓一揆が起ればお家の大事となる、宇和島藩に吸収される口実をつけることになる。ここは、百姓共の願いに譲歩するしかないとの結論が出た。
正月二十三日、代官岩下萬右衛門、目付補佐二関古吉、中見鈴木作之進、下代その外数名が申渡しのため吉田を発った。
代官は百姓共へ概ね次のような回答を申し伝えた。
・楮紙の他所売り、値段も自由にやってよい。
・紙買町人(法華津屋)は指定商人「入山」から引離す。
・楮元金は藩から拝借できる。
・紙買町人は多人数に申し付ける。
更に願書の数か条、つまり大豆の値段、大豆乾欠、米の計量方などについては、改めて回答する旨申し伝えた。
二十六日、二関古吉と作之進は川筋へ向かい百姓共に、数か条の願いは相立たず、万事従前通りと申し伝えた。
藩はこの時期になって、紙に関しては御仕法を緩めたが、肝心の年貢については改めなかった。これでは百姓共の怒りは収まらず、いよいよ緊迫感を深めていった。
(武左衛門一揆記念館・2018.3.22撮影)