天明の土居式部騒動(1)
これからは小説風に……、
寛政四年(一七九二)の冬は寒い日が続いた。師走で町人町の本町、魚棚界隈は賑わっていた。
鈴木作之進は、横堀の居酒屋「宮長」で熱燗をちびりちびりとやっていた。中見役の作之進は、吉田藩の領内を見廻り、庄屋ら村役人を指導し、領内の治安に当る役人である。
吉田藩の領地は、宇和海の入り江に陣屋があるが、その中心部から東の山間部へ細長く広がっている。元々は宇和島藩の領地だった山奥組と呼ばれる地区は、日向谷(ひゅうがい)村、上大野村など数か村が点在し、山を越えた隣村は土佐藩領地である。
日向谷村は、今の愛媛県北宇和郡鬼北町日吉にあり、吉田藩陣屋から十数里は離れており、千メートル級の山々が迫る山峡の地である。
作之進は、山奥組の百姓らの動きが怪しいという情報があり、一人で偵察して帰って来たばかりだった。
師走の山間部は吉田表よりずっと寒い。真っすぐ家に帰る気がしない。現代のサラリーマンと同じで、どこかで一杯やらなきゃ身が持たない。
冷えた体を熱燗の酒で温めながら、作之進は、
(この騒ぎは昔のあの事件と似ているな……)
と記憶をたどっていた。
話は七年前にさかのぼるが、鈴木作之進はある騒動に係わった。
その頃は、近世最大といわれる天明の大飢饉が起こり、全国的に打ちこわしなど百姓一揆が頻発していた。
吉田藩でも飢饉の影響が残る天明七年に「土居式部騒動」と呼ばれる一揆未遂事件が発生した。
その年、吉田藩三間郷の者が宗家の宇和島藩に越訴するという噂が、代官の耳に入った。早速、作之進は奉行から内々で探るよう申し付けられた。三間郷は、百三十年前に宇和島藩から吉田藩に領地替えになっていた。
吉田陣屋から三間盆地まで行くには吉田街道という十本松峠を越えるルートと吉田立間村から七曲り峠を越えて三間則村に抜けるルートが有る。
宇和海の潮の香りがする陣屋町から東の山奥へ入るには四、五里ばかり、人馬がやっと通れる細い道を越えてゆく。
十本松峠は、吉田湾や陣屋町が望める風光明媚な所で、右手には法華津の山々が青く霞んでみえる。三間郷から吉田へは年貢米など、吉田の魚棚からは魚介類などを運ぶ人馬の往来が盛んであった。
六月九日夕七つ(午後四時)過ぎ、作之進は馬に乗って吉田立間村から三間村へ向かった。
七曲り峠まで来た時に、三間務田の顔見知りに出くわした。
この男は長患いをしていると聞いていたが、作之進は、
「どうだ体の具合は、まあ無理はするなよ。少ないがちくわ代にでも致せ、」
と見舞いの小銭を渡した。この男は三間村で何かあればそっと耳打ちしてくれるはずだが、噂のことは知らない様子だった。
(先ずは戸雁村庄屋の久右衛門へ参ってみよう)
と庄屋の屋敷に向かった。
作之進は、夕刻久右衛門宅へ着き用向きを話した。
「川筋に用があって参ったが、今晩一宿願いたい」
「何か火急の用事でしょうか?」
と久右衛門が尋ねると、
「実は、三島神社宮司の土居式部に、内々で相談したい事があるのだが、誰かひそかに知らせてもらいたいのだが」
と作之進が言うと、
「何事か存じませんが、すぐ使いをやりましょう」
久右衛門は、ただ事ではないと思った。
間もなく先方に話が通じて、作之進は宮野下にある三島神社の土居式部方へ参った。神社の本殿までは階段が百段はある。辺りは大分暗くなっており、麓には常夜燈がぼんやり灯っていた。
宮司の家には見慣れぬ客が一人居たが、式部に内密の話があると言うと、別の部屋へ案内された。作之進は、初めて聞いたようなフリをして、
「今日は三間元宗の満徳寺へ用事があって参った。馬に乗って七曲り峠から入ったが、馬の口取りが聞き捨てならぬことを申した」
と式部に言った。
口取りは、このように喋った。
(きのう山奥組へ駄賃を取りに行ったところ、三間の者が、何か訴えたいことがあり、宇和島に願い出ると言っていましたぜ)
作之進は、吉田藩領の三間の百姓が申合わせて、宗藩の宇和島藩に直訴ということは正気の沙汰ではない。越訴は天下の大罪になると大げさに、
「様子次第では長逗留になるが、もしも似たような噂などあればお聞かせ願いたい。さもなければ、百姓たちに探りを入れてもらいたいのだが……」
と式部の顔色を伺いながら言った。
すると式部は、他人事の様に言った。
「口取りが言っている話は、噂で聞いておる。宇和島方へ何か願い出ると言うのは、川筋から村々へ伝わって、浦方にまで聞こえているそうだ。立間村の者は百姓が騒いでいると申している」
作之進は、
「左様であれば今夜でも、話の分かる者を集めて聞いてもらいたい」
と式部に伝え、今夜は庄屋の隠居久右衛門方に一宿するので、様子が分かれば何時でも知らせるようにと頼んだ。
「なあに、ご安心なされよ、取り締まりで来たのではない」
と付け加えて神社を去った。
作之進が戸雁村に戻った所、久右衛門は面屋へ留守番に来ていた。早速、これまでの話をした所、久右衛門は、
「左様な相談であれば、樽屋與兵衛を呼んで内々で尋ねてみよう」
と隠居は、庄屋の與兵衛へ人をやった。しかし詳しいことは何も聞き出せなかった。また式部からも何の返事もなかった。