西国の伊達騒動 7

山田騒動

 吉田藩紙騒動は、土佐藩との国境が発祥地である。

吉田藩の発足後に起こった大事件も、元はと言えば土佐者が絡んでいる。

 それは、天和三年(一六八三)の「山田騒動」で、元土佐藩士が吉田藩を牛耳ろうとする野望から発したものだった。

 この事件は、司馬遼太郎著作『馬上少年過ぐ』の(重庵の転々)という短編で紹介されている。

 宇和島、吉田には大作家を魅了する歴史ネタがあるのだろう。

司馬遼太郎吉村昭が伊達藩について多くの著書を出している。

 (重庵の転々)を参考に話を進めると……、

 あるサムライ、元土佐藩士が国境の山を越え、吉田領内に住みついた。山奥の深田(ふかた)村に医者として入り込み、山田文庵(重庵)と名のっていた。

 それが、深田にきてわずか二年で名医として文庵の名を山奥一帯にとどろかせた。しかし文庵は、ある男がもたらした情報で山を下りることになった。

 その男は、村に出入りする藤七という得体のしれない者だった。文庵はこの男を、宇和島藩密偵か、それを見張る吉田藩の者か、どちらかと睨んでいた。

 最近は、山奥にも宇和島密偵が入って居る。宇和島藩の財政を立て直すには、分知した三万石を取り戻すしかないと、吉田領内で百姓などを煽動し一揆を起させようと企んでいたという?

 宇和島藩の中には、江戸幕府が吉田三万石を公認した御朱印状を盗もうという者までいた。

 文庵は、物売りの格好をして頻繁に出入りする藤七に、宇和島へ薬の材料を買いに行かせたりして重宝に使っていた。

 ある日藤七が、吉田藩の殿様伊達宗純に大きな腫物が背中に出来て、明日をも知れぬ命と打ち明けた。

(藩主の容態のことまで知っているのは、やはり吉田藩の者か)

と見抜いた文庵は、藤七に案内をさせて吉田陣屋町に入った。

 これまでの侍医の治療では、殿様は一向によくならない。文庵は、殿様に荒療治を施した。患部に調合した薬をぬり、しばらくして膿(うみ)が出始めたとき外科手術をした。

(といっても焼いた針を患部に突き刺しただけであるが)

殿様はさすがに大声をあげた。

 その悲鳴をもろともせずに文庵は、患部に唇を当てて膿を吸い始めた。強烈な痛みに殿様は、のけ反って気を失った。

しかしこれが功を奏したのか、殿様は一命をとりとめた。

 延宝二年(一六七四)文庵はこの功績を認められ、二百石で藩の御殿医として召し抱えられた。

 文庵は、元土佐藩士だけあって剣腕(うで)が立つ。ある日、山根将監という兵法者が御前試合を挑んできたとき、藩の兵法指南役が討たれ、だれも立ち合う者がいない。

そのとき文庵は、手負いの者を手当てすると思いきや、倒れた者の木刀をひろい将監に向かった。機敏な動作で将監の鎖骨、肩の骨を砕いた。

 殿様はひざを叩いて、

「あっぱれ!あっぱれ」と無邪気に喜んだ。

 出来過ぎた話ではあるが、その後、文庵は殿様に政治向きのことまで口をはさむようになった。

吉田藩の財政事情をよく調べ、自分なりの改革案をもっていた。

(小藩にしては重臣らの石高が多すぎる)

と殿様に言上した。

 明暦三年の吉田分知のときの、知行高は、

 家老の井上五郎兵衛が千三百石、尾川孫左衛門が千石、朝倉内蔵之助が八百石、甲斐織部ら三名が五百石、戸田藤左衛門ら五名が四百石など、合計七十八名、一万九千四百石の知行高となっていた。

 殿様は文庵の言うなりに大改革を断行した。

 先ずは、ことも有ろうに高給取りの家老が粛清された。筆頭家老の井上五郎兵衛は延宝元年、江戸にて職務怠慢を理由に御暇(おいとま)となった。尾川孫左衛門は、延宝五年吉田で御暇となり家禄を召し上げられた。

 更に五百石の甲斐織部らの名前が挙がったが流石に殿様は、

(これまでにとどめよ)といって粛清は止まった。

 これらの働きで、文庵は天和元年(一六八一)三百石を加増され、遂に筆頭家老に抜擢、名を山田仲佐衛門と改めた。

 家老となった仲佐衛門は、なんと二千坪もある井上五郎兵衛の空き家に入った。

 奸物と疎まれた筆頭家老に世間の目は厳しい。出る杭は打たれる、粛清対象の甲斐織部らが動き出した。

(仲佐衛門、恐ろしや、お家を乗っ取るのではないか)と、やり過ぎた粛清、首切りに大反発、仲佐衛門悪行のデマを流した。

 宗家宇和島藩まで行ってその行状を振れまわったが、宇和島藩はすでに密偵を入れて、

(吉田藩が大騒動になっている)と状況を把握していた。

 宗藩は、もっと騒ぎが大きくなれば江戸幕府に聞こえ三万石を取り戻せると、甲斐織部らの話を聞かなかった。むしろ騒ぎをけしかけていたのである。

 天和三年(一六八三)十一月二十八日、仲佐衛門のやり方に義憤を感じた足軽など、軽輩の者が決起した。

 長兵衛、徳兵衛、覧右衛門、四右衛門、五右衛門、三助、四平、久助らで、彼らは御小人組(おこびとぐみ)に属していた。元は地元の百姓で、屈強の若者が足軽として召し抱えられていた。

 藩に対し忠誠心の厚い彼らは、奸物仲佐衛門に天誅を加えようと、御殿前の松林で仲佐衛門を待ち伏せした。

しかし同士の一人が恐れをなして、お上に事の企てを漏らした。

 何と、同士の前に現れたのは捕り方だった。捕らえられた八人は切腹を命じられた。

 これを聞いた殿様は、お気に入りの草履取りの四平だけは、助けようとしたが、

(同志に面目ない、四平はすでに死にました)と、お上に言ってくれと告げて腹を切った。

 憐れ八人の遺体は切腹の場、普門院に埋められた。後年、吉田町大工町の丘の上には、墓碑が建てられ廟所が建立され、今でも地元の人が「八人様」と呼んで供養の線香が絶えることはない。

 その後も甲斐織部らは、仲佐衛門の排除に躍起になった。

(参勤で江戸に行ったとき仙台藩にすがろう)

と、江戸に着いた一行は直ぐに、仙台藩江戸屋敷に向かった。

 家老の柴田内蔵(くら)に山田仲佐衛門の悪行を訴えた。柴田は仲左衛門を江戸に呼び寄せた。

 仲左衛門は初めて帆船に乗った。吉田湊を発つ船から、

「なぜわしが江戸に行かねばならぬのだ」

と呟きながら吉田の山々を眺めた。海から見る山は実に美しい、しかしこれが見納めとなり、仲左衛門は、再び吉田の地を踏むことはなかった。

 帰らざる航海、船は大坂を目指した。東海道を江戸に向かい八丁堀の江戸屋敷に着いたのは一か月後だった。

 早速、仙台藩柴田内蔵から呼び出しがあった。仲左衛門の弁明は理路整然で、柴田を驚かせた。

(この様な者が四国の西端、伊予吉田藩に居ったのか)

 この尋問で仲左衛門は、政治哲学を述べた。その調書の筆写本は、後年の伊達藩主の必読書になったという。(司馬氏)

 甲斐織部らとの談判も仲左衛門がまさった。しかしお家を騒がせた不届き者と、本来は切腹が当たり前のところ、藩主宗純が柴田宛に書状を認めた。

「仲左衛門を元の文庵にもどしてやってくれ」

と記されていた。

 宗純が江戸屋敷で仲左衛門に接見したとき、

「そちから命を助けてもらったことは忘れていないぞ」

と、言った通りに殿様は、仲左衛門の命を助け、恩を返したのである。

 貞享二年(一六八七)甲斐織部は、五百石の知行を召し上げられた。仲左衛門の身柄は仙台に送られ、仙台藩伊達綱村にお任せ、藩にお預けとなった。放浪者の文庵は土佐から転々とし余生を仙台の町医で過ごしたという。

 将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」を発した貞享の頃だった。

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(八烈士の供養碑 出典:新宇和島の自然と文化)