西国の伊達騒動 1


 (はじめに)

 ブロガーの故郷(愛媛県宇和島市)には、伊達宇和島藩と伊達伊予吉田藩の家老を祭神とした神社がある。

 両藩二人の家老は、お家騒動で非業の死を遂げたが、今でも「和霊神社」「安藤神社」として郷里の人々から崇められている。

 我がふるさと伊予吉田藩で寛政年間に起きた「吉田紙騒動」は、家老の安藤継明が切腹して伊達家を護った。

 ブロガーは、伊予吉田藩の中見役・鈴木作之進が遺した「庫外禁止録」という古文書を入手した。これは、お家騒動を下級武士の目から見た事件簿で、興味深く読んだ。

 本日より、今まで書きまとめていた拙文を、ブログにアップする。長編になりますが興味ある方は覗いてください。

 

西国に伊達二藩あり

  昔、西国伊予には二つの伊達藩があった。宇和島藩伊予吉田藩である。

 そもそも伊達家のルーツは東北奥州であるが、遠い西国にも伊達家が存在するのは、戦国武将伊達政宗の思惑が絡んでいた。  

 独眼竜・政宗は幾多の戦いを勝抜き、仙台藩の初代藩主となるが、世は豊臣秀吉の天下だった。政宗は戦国の天下取りレースに大きく出遅れた。

 政宗には、猫御前と云われた側室の子、兵五郎がいた。幼少にして秀吉の人質として差し出され、京都聚楽第大坂城で過ごした。やがて元服すると秀吉から「秀宗」の名を授かり、秀吉の子秀頼の御側小姓となった。だが、戦国の世は少年秀宗に安住の地を与えなかった。

 秀吉亡き後、関ヶ原の戦い石田三成の人質となり、宇喜多秀家のもとに預けられた。やがて徳川家康が天下を取り、秀宗は江戸で暮らすことになる。しかも父政宗は、正室愛姫の子、忠宗を仙台藩二代目としたため、秀宗の将来は暗然たるものだった。

 政宗は、長男秀宗を政略の具としたが、何とかして一国一城の主にしたいと考えていた。

 慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣で、政宗は秀宗を戦場に立たせた。秀宗は大坂城を囲む徳川軍勢の中にいたが、目の前の大坂城には幼友達の秀頼が居り、後方の茶臼山には総大将の家康が陣取っている。幼友達は敵味方に分かれて戦うが、その後和議が成立し、彼らは安堵の胸をなでおろした。

 第二代将軍の徳川秀忠は、冬の陣の戦功で、秀宗を西国宇和島の地に十万石の所領を与えた。

秀宗は小藩の主となるが、遠い異国のような宇和島へゆく彼の胸中は如何ばかりであったろう。

 慶長二十年春、政宗は西下する息子に、選りすぐりの家臣五十七騎を与えた。秀宗ら主従を乗せた「南渡丸」は尼崎を出帆、やがて伊予長浜に着いた。

 伊予へ上陸した伊達軍団は、四国山地を縫い大洲、宇和盆地を通り宇和海を望む法華津峠に立った。宇和島城下まであとわずか、秀宗は遥か彼方に浮かぶ日振島を見て、 

(ああ、あれが海賊、藤原純友夢の跡か……)

と呟き眼下に広がる宇和海の絶景に暫し時を忘れた。

 今は昔、西暦九三〇年頃、平安貴族の藤原純友は、瀬戸内海で海賊を退治する役目だったが、反乱を起こし自らが海賊となった。華の京都を捨て、宇和島日振島を拠点に、西国の大海原で海賊となった。純友はさんざん暴れ回ったが、遂には鎮圧軍に敗れ、南海の藻屑と消えた。

 秀宗は、逆賊となって死んだ純友の無念と、西国に落ちてゆく我が身の不運を重ねて宇和島入部を前に漫然としていた。

 ……後年、父政宗は秀宗に和歌を送った。

『曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞゆく』

 これに息子秀宗は返歌として、

駿河なる富士の高嶺の雪消えて田子の浦輪にすめる月影』

と詠んだ。

 この年、大坂夏の陣で、憐れ秀頼は母淀殿と共に自害した。花も実もある二十一歳の青年だった。

 秀宗は、宇和島に入部早々で、豊臣家の滅亡に係わらなかったことが、せめてもの救いだった。

 幼友達にとって、花よ蝶よと過ごした大坂の日々は、太閤秀吉が云う“浪速のことも夢のまた夢”であった。 

 これが、宇和島藩十万石の始まりで、伊達秀宗が藩祖である。

 

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宇和島城にてブロガー自撮り(2014.9.21)