「沈みつ浮きつ」若き人の為に(6)

 社員の採用方法昭和15年8月28日) 

 亀三郎翁は、明治28年頃、伊藤好三郎、中村定安を最初の小僧として雇った。彼らはその後、山下鉱業の取締役になった。それから窪田操、林武平、大藤友松を採り、船をやるようになって、竹原宗太郎、鋳谷正輔、玉井周吉等を採用した。

 明治43年、神戸支店が出来て初めて大卒を採った。京都大学・末廣教授の推挙で、今西興三郎、内藤正太郎外一名を採用。

 明治45年ロンドンへ初めて社員を置いた。一ツ橋高等商業の高野進で、その頃、同郷の伊東米治郎が郵船会社ロンドン支店長だったので、他社の人間であっても伊東の事を頼んでいたそうである。

 今日こそ(昭和15年頃)毎年、大学、専門学校、甲種商業学校から50人、60人採用するが、明治42,3年頃は、山下が学校出を採ると云っても希望者は少なかった。

 亀三郎翁の採用する信念は、創業以来変わらず、一顔一見主義で、両親があるか無いかを聞き、その父と母を思い浮かべて採否を決する。早いのは2,3分遅くなっても5分で決まる。不採用の人から「よく我等を見もしないで採る採らぬを決める、人を馬鹿にしている」という非難も一向に耳を傾けなかった。

 翁は、「私は書物は眼鏡なしでは一行も読めないけれど、人間を見る目は眼鏡など必要としないつもりだ。学校の成績など、その課目を記憶していたか、いなかったと云うだけの話であって、人間としての神経が間違って居ったら、如何に立派な成績表でも役に立つものではないものと信じて居る」と語っている。

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 ここに登場する郵船会社ロンドン支店長・伊東米治郎は、宇和島の出身で、亀三郎翁より4歳年上、19歳で上海から米大陸に移り、苦学してミシガン大学を卒業した。その後日本郵船に入社、上海支店長、ロンドン支店長を務め、後年、大社長近藤廉平の後を引き継いで4代目の社長に就任した。

 大正6年京都帝国大学大学院の田中正之輔は、冷やかしで山下汽船を覗いた。就職を紹介した教授の顔を立てるつもりだった。当時の帝大生の半分が総合商社、貿易商を就職先とした。その次が銀行、損保生命だったそうである。亀三郎翁は一眼、田中を見て「君は何時から来るかね」と握手を求めて来たという。

田中はその後、頭角を現しロンドン支店で大戦後の不況時に5隻の船を購入した。しかし、昭和5年(1930)山下を離れ大同海運を設立した。

 吉田町白浦出身の浜田喜佐雄は、大正7年に店童として山下汽船に入社した。田中は店童の教育係りだった。浜田は田中に従い大同海運に移った。(後に、ジャパン近海社長となった。ブロガーを採用してくれた恩人で、母の親戚にあたる)

  時は過ぎ1989年、山下、大同は合従連衡の末にナビックスラインとして再統合される。

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   (田中正之輔と店童時代の浜田喜佐雄 出典:トランパー)