西国の伊達騒動 15

吉田藩紙騒動 (8)武左衛門

  近世において百姓一揆の発生件数は、全国で三二〇〇件あったが、伊予国(えひめ)は一五五件あり第四位の上位である。中でも南予地方は宇和島藩六五、大洲藩一九、吉田藩一五と何故か集中して多い。

 インターネットを検索していると、『南予史探訪』・内ノ子一揆を紹介している(じゅんのつぶやき)というブログを見つけた。ブロガーはすでに亡くなっておられるが、娘さんの意向でブログはそのまま残っている。

 莫大な数の更新記録があるが、カテゴリー(愛媛の歴史)から貴重な記録を引用させて頂きます。

 この方は宇和町のご出身で、寛延三年(一七五〇)に大洲藩で起こった内ノ子一揆を紹介している。

 この内ノ子一揆は、四十三年後に起きた武左衛門一揆に影響を与えたという。

 この一揆は、喜多郡の小田郷薄木村の農民が起こした騒動が発端となった。

 村の農民が、年貢の重さと村役人の横暴に立ち上がり、たちまち喜多・浮穴の農民一万八千人は、内子・山中地区の庄屋・豊農・豊商を打ち壊し内ノ子河原に集結した。

 この時、農民たちは、村々の庄屋・組頭・特権商人宅などと大綱などを用いて次々と引き倒しながら大洲城下を目指した。

 農民たちは、年貢の四割免除、農民による公役の減免、年貢徴収時の計りの不正使用の廃止、悪質な村役人の排除など二十九ヶ条を要求した。

 大洲藩では、支藩新谷藩の調停を受け入れ、一揆が起こって八日目には農民の要求をほとんど認めるという回答を、新谷藩を通じて農民に伝えた。

 内ノ子一揆は、発生から十一日目には一揆の指導者への処罰を不問にさせるという交渉をし、それを大洲藩に受け入れさせた。

 だが、一揆指導者の処分を不問にするという約束は一ヵ月後に破られ、一揆後、小田筋の村々で十四、五人が召し捕られ、拷問の末に入牢や追放、閉居の刑に処せられたという記録が残っている。

 このブロガーは、吉田藩の武左衛門一揆にも触れており、

「武左衛門と共に捕縛された者の中に、大洲藩出身のものが二名居たといいます。それを綿密に研究なさった方がいます。その当時は他の藩に移動することなど出来なかった時代です。それでも、大洲藩の出身者が一揆の指導者の中に入っていたという事実。これが、四十三年前に起こった大洲藩の内ノ子一揆とを結びつける鍵です」

と記述されている。

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 さて、話を吉田騒動に戻すと、

 一揆の首領・武左衛門は、吉田藩の家老など権力者が、御用商人らと癒着する悪政に憤慨していた。年々百姓衆が困窮するのを見て、自らが身を挺して救済をしなければと決意した。

 しかし、七年前の土居式部事件の失敗も有り、内密に信頼のおける同志を見つけることに専念した。

 武左衛門は三年に亘って吉田藩の山奥、川筋、三間盆地の山間部から、吉田陣屋に近い立間、喜佐方、白浦、はたまた海浜部の飛び地、津々浦々まで八十三ヶ村を回り、意思の固い農民二十四名を集めた。 

 藩内の百姓全てを実力行使に参加さすために、入念な準備をしたのである。

 武左衛門は、集団蜂起のタイミングを計っていた。

 藩の苛斂誅求に対し、度々の租税減免の願いも空しく、いよいよ百姓衆の鬱気も最高潮に達していた。

 武左衛門は、機まさに熟したと、遂に立ち上がり各村の同志に檄を飛ばした。

(我等は法華津屋ら奸悪な商人の為に餓死寸前まで追い込められた。早くやつらをぶっ倒して、自活の道を開かねばならん、皆一同起て!)

 戸祇御前山に狼煙が上がったのは十日朝である。狼煙は事前の打ち合わせで川筋、三間、立間へリレーされた。立間の山から上がった狼煙は、海岸端の漁村に一揆決行が伝わった。

 二月九日の夜、戸祇御前山に集結していた百姓は、日向谷(現日吉)・高野子(現城川町)の奥へ廻り申次の通りに村々の皆を誘い出した。

 十日昼頃、山奥十ヵ村から屯集した百姓衆は、鉄砲を放ち法螺貝を吹き、鬨の声を上げた。その道筋で、

(大声を出せ!出さなければ戻って礼をするぞ!)

と示威運動を開始した。

 一揆集団は、(法華津屋を打ち壊せ!)と、麻苧の中に神社の護符、女の髪の毛を綯いこんだ大縄を携え、村の名を書いたムシロ旗を押立て、一気に広見川を下った。

 各村では、武左衛門の見込んだ同士共が手筈通りに行動した。

 興野々村・彦右衛門、延川村・清蔵、国遠村・幾之助、沢松村・藤六、兼近村・金之進、六右衛門、上川原渕村・與吉が、武左衛門の指示通りに百姓衆を束ねて気勢を上げていた。

 一揆の連中は、途中で各自が持ってきた大綱を、大木や大岩に引っかけ引き倒した。勇気付けに茶碗酒をあおり大声を発した。夜になると松明を振りかざし時々銃声も発した。

 大勢の百姓が山から下りる姿は、まるで大蛇がくねくねと身をよじっている異様な光景であった。

 一方の作之進は、これまでの一連の動きから一揆勃発の恐れがあると感じていた。

 二月九日夜、川上村の庄屋清左衛門は、百姓共の急変を見て手下の者に、代官岩下萬右衛門へ急ぎ報せた。しかし代官は病気で、中見の鈴木作之進へすぐに申し越すようにと言われた。

 その一報を聞いた作之進は、来るべきものが来たと、奉行所へ急いだ。

 作之進は、一揆の連中は出目村に集結すると読んでいた。出目は山奥組、川筋と吉野、奥野川などが合流する要の場所である。

 郡奉行の役人は急な事で狼狽したが、取り急ぎ代官・平井多右衛門、星名善左衛門、江口圓左衛門、二関古吉、鈴木作左衛門は次々と出郷した。岩下萬右衛門は病気につき出郷出来なかった。

 奉行・横田茂右衛門、簡野伊兵衛、中見助敬蔵、御郡渡の四人も急に出立した。

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(2018.3.22日吉にて、蜂起する百姓と紙の原料ミツマタの花)