西国の伊達騒動 12
吉田藩紙騒動(5)紙方役所
紙漉き百姓に突然、悪しき報せがあった。
寛政四年十一月十五日、藩は紙方役所を置き「紙方御仕方替」つまり密売などの取締りを厳しくする新法を作り、藩は財政難を乗り切ろうとした。
これを知った作之進は驚き、御郡奉行衆へ
「今回の新法は恐れながら腑に落ちません。納得が参りません」
と言うと、奉行の横田茂右衛門は、
「これは、わしも知らぬ事、いきなりの事で戸惑っている。元締め衆に聞いてみたが、誰も知らぬ存ぜぬという」
これは藩と御用商人が、秘密裡に進めたのであろうと、作之進は思った。
この新法の経緯が詳らかになった。
吉田藩領内の紙は、商人と百姓の相対商買で決まる。百姓は成るだけ売値を上げて利益を得たいが、商人は少しでも安く仕入れたい。この力関係は紙漉きの生産量で変わる。
商人は、最近紙漉きの量が少ないと不振に思い、隠密をもって調べた。隠密は、百姓が商人に売った紙の外に、漉き貯めた紙がかなりあることを突き止めた。
百姓共は、不況の時は、商人の買い控えで紙が余る。漉き貯めたものが増えるのは仕方がない。窮したあまり他所へ抜け売りをするのは当然の成り行きだろう。
作之進は、法華津屋の商売を頭に描いた。
――法華津屋は千石船で大阪向けに種々の荷物を輸送している。多くの品目を扱う幅広い商いで、商品相場に詳しく金融にも長けている。
藩の重要産業である紙ビジネスを拡大しようと考えるのは、商人として当たり前のことである。
法華津屋は大阪で、藩の御用為替を扱っている。そのお金を借用して手広く商売をしている。
紙においては、藩の御用紙以外に自社で紙を買付け、大阪での販売を年々拡大している。藩のお金をうまく運用して私的なビジネスに流用している。
作之進は、法華津屋が余分の紙を買い集めるのは、ひょっとすると山奥組の抜け売している紙が、回り回って自分の所へ集まるように仕組んでいるのではないか。
抜け売を高く買ってまで商売ができるという事は、余程大阪で紙が高く売れるのであろう。藩の御用紙を紙漉き百姓から安く買って、一方、高値でも抜け荷を集めて販売量を増やす。
その元手が藩のお金であれば、法華津屋は濡れ手に粟である。
法華津屋両家は、吉田藩と言わば運命共同体である。「紙方御仕方替」が発令され、御用商人たちが潤い、百姓衆は益々窮地に追い込まれた。
新法「御定の事」が発令された。
藩は、群奉行、町奉行を差置いて紙方役所を設置した。
紙方作配頭取に、今城利右衛門、井上治兵衛、同作配方に影山才右衛門、紙方改めに国安平兵衛、檜垣甚内という人事で、いずれも目付役である。
新法の細則は、平たく言うとこうである。
・紙漉きの他所売り、抜け売りを厳しく取り締まる。即ち、忍びの者を入れ、その働きにより褒美を遣わす。
・百姓一人当たりの仙貨紙を一丸半と決める。
・請負紙の他は、定価に三十分の一を加へ買取る。
・他所紙の取次は差しとめる。
・紙買株は勝手次第だが、新増株は指し止める。
・毎年、楮の値段を紙方役所が決める。
・船積や紙荷船が滞船のとき、忍びを入れ取り締まる。
しかし作之進は、この新法には疑念を持った。
つまり、
・紙漉き高を統制することはない、百姓の生産は自由にすべき。
・請負以外の紙を買い取る場合、三十分の一増しでは安すぎる、これでは抜け売を止めることは出来ない。
・他所売りについては、規制せず自由にすべきである。
・新増株の指し止めは、益々法華津屋に独占されて百姓衆の反感を買う。
・楮の値段を毎年役所が決めることは、生産者を惑わす。
・楮、紙の取締りに忍びの者を入れても抜け売はなくならない。
作之進は、このような疑問もあり、御郡奉行へ内々でこの旨の申し入れをした。
(百姓衆は、今は楮を蒸す仕事の最中で忙しい、不意の御仕法の仰せは只々狼狽えている。来年の春まで御定めは待って欲しい)
郡奉行は、この度の御仕法について末席家老の安藤義太夫に陳情した。
奉行の横田茂右衛門は、
「安藤様に申し上げます。この度の御仕法に付きましては、恐れながら百姓共が騒いでおります。郡奉行にても仔細分からず当惑しております。山奥組を取り締まっている部下からも、厳しい御定めで百姓共の反発は必至と申しております。何卒、ご一考のほど御願い申し上げます」
家老の安藤義太夫は、
「百姓共の言い分も有ろうが、決まった事である。暫し、様子を見ては如何であろうか」
と諭すように答えた。
奉行の横田は、奉行所に帰り皆に伝えた。
(安藤殿は最近家老に成られ、上役には中々進言出来ないのであろう。暖簾に腕押しのようなご返答であった)
作之進は、今回の御定めが施行されると、今まで積もり積もった百姓衆の怒りが一気に爆発するのではと、危惧していた。
「ご奉行様に申し上げます。山奥の百姓は入山の統制後、紙の値段が下がり、借金の返済も滞っている居ります。これ以上厳しく規制すると、窮した百姓共は一揆を起すかも知れませぬ。もう一度、御家老にご建言致されたくお願い申し上げます」
と、作之進は、頭を畳につけて進言した。
御郡奉行衆も山奥組の狼狽ぶりは承知していた。藩の事情もあり、奉行所としては政治に口出し無用と考えていたが、流石に今回の新法は、奉行所も知らぬこととはいえ見過ごすことは出来ない。
数日後、奉行の横田は再び家老安藤を訪ね、
「御家老様、藩命に口を挿むは不届きと、重々分かって居りますが、百姓共は何やら只ならぬ様子であります。当方も十分に取締りを強化しますが、大事に至らぬ様、今一度ご対応を願い申し上げます」
再三の申し入れに安藤義太夫は、
「藩が、財政難で苦しんで居るのは貴殿らも承知であろう。この度の御仕法はお家を護るためである。貴殿たちが懸念するのであれば、倹約奉行に聞いてみては如何かのう」
と、苦し紛れな返答だった。
安藤の指図で横田は、倹約奉行を訪ねた。紙方作配頭取の井上治兵衛も同席したが、会談の結果は帰館した横田の呟きで分った。
(倹約奉行は、その段以ての外とけんもほろろで、代官衆に聞けばよかろう、とは無礼な申しようだ)
結局のところ、作之進の建言は日の目を無ることはなかった。
仏にもならで涼しき庵哉 狸兄
(法華津屋三引3代目当主甚十郎)
この句は、宝暦3年(1753)芭蕉ゆかりの地を訪ねたおり、象潟で詠んだ作。
又日々に新に清き木槿かな 虹器
(法華津屋三引6代目当主古右衛門)
吉田騒動を機に43歳で隠居、文化10年(1813)「年賀集」を刊行、日本各地の文人墨客と幅広い交流がある。
=国安の郷 2015.5.6撮影=