吉田三傑「村井保固傳」を読む 47


最後の病氣と終焉 (2)
村井病気の報に最大の衝動を受けたのは、米國に病を養って居る村井夫人である。如何なる方法を執つても構わぬから、村井を米國に送つて欲しい。必要とあれば専門の医師、看護婦を同伴させて、一日も早く米国へ屈けてくれるやうと云ふのである。周囲の人々が村井の病狀では到底不可能であることを話すと、今度は『然らば自分が日本に赴き、看病してキット全快させて見せる』と云ふ。それも叶わぬと云へば『假令ひ自分が太平洋上で幣れても厭わぬから遣ってくれ』と悶へる。側近が泣いて諫めるけれど承知しない。最後に掛りの医師が『村井は不治の病気に惱んで居るのではない。今貴女が病を推して旅行に上り、中途に倒れた後に村井が全快して渡米した時、如何に彼が悲嘆に暮れるか知れない。それよりは貴女は米國で治療し、村井も日本で最善の治療を加へ、双方が全快の上再会するが一番の幸福であらう』と説いたので漸く夫人の渡航を制止することが出來た。これには何人も暗涙に咽ばぬものはなかつた。
思ひは同じ太平洋の此方でも、村井の夢は夜な夜な夫人の上に通うたものと見へる。されば時に見舞客が絶えて、唯一人寂然たる一時、壁間に揭げた妙齡時代の夫人の寫眞をしみじみと見入って、過ぎし昔を思ひ浮かべてか、遂には落涙潜々と頬に流れるのを、前後二度ほど御見受けしたとは、傍に看護した婦人の後日談である。
実際村井に取って斯ういふ場面の遣る荑ない悲痛であつたことは勿論であるが、同時にに一面又多少の滿足であつたかも知れない。一日地主夫人が病床に尋ねた時、村井は夫人に對し、
『世の中には如何に思うても出来ることと出来ないことことがある。弱い人間として誠に止むを得ない。私なども米國に往って家内の看護受けたいとは思ふが、ドゥも事情が許さない。さりとて家内も亦日本に來て親しく私の見取りをしたいのは山々でも、是れ又病気の爲め遠方の旅行に堪えぬと云う以上、思うに任せぬ人事の悲哀として、お互いに諦らめるより外はない。』
と切々の情を訴へるのである。
然も彼は最後まで夫人に対する慰安を忘れなかつた。永眠する二三日前のこと、米國へ左の電報を打つた。
“I am feeling fine, Dont worry”私は大変気分が善い、心配しなさんな。
実際來るには來られず、行くにも行かれず、両心両国に別れて地球の裏と表に離れながらも瞑目するまで飛電を通じて、魂の語らひを続けたものである。
されど玆にーつの慰安と云ふか、天の配劑と云ふか、晚年村井が友人に語つたことが思ひ合はされる。『自分が米國人と結婚して一生幸福を共にしたのは仕合せであるが、只ーつ最後の心殘りがある。それは、自分としては父母の國たる日本で、最後の息を引取りたいと云ふ希望を持ち、家内とし見れば又同じく、生れ故觶たる米國の土になりたい思いをして居るだらう。然るに、自分が米國で死ぬるか、妻が日本で終るか、何れーつが出來ても互いに気の毒に堪へぬものがある。こればかりは国際結婚に伴う不如意のーつである』と云つた。然るに偶然にもその村井は日本で逝き、夫人は又一年も經たぬ内に米國で永眠した。双方とも愛する故國で最後の息引き取ることとなり、村井が生前に気づかったことが杞憂になつたのは、両人とも悲しいながら一面又恵まれた最後と云へぬでもない。
病院では藥餌と手当に殘る所ない治療を施した。友人と部下と信仰の友は慰問と祈りに最善を盡した。然も定命八十三歳、遂に如何ともしやうがない。
昭和十一年二月十一日午前九時三十分彼れ村井保固は神に召されて久遠の眠りに入つた。
救世軍中将山室軍平が死の前日病の床に侍して詩篇より『なやみの日にわれをよべ、我なんぢを援けん。なんぢ我をあがむべし』の聖句を唱えたる際、村井はニッコリ笑うて感謝された、とあかしをされて居る。
当日永眠の直前、山室は
『天の父よ、今この兄第の霊魂を御手にまかせ奉る。うけいれ給へ、アーメン。』
と祈つて天に帰りゆく彼を見送った。
何んと云ふ崇高な臨終よ。如何にも大村井に相應はしい最後であつた。
村井の息太觔は村井が某日本人との間に儲けた一子である。少時米國に引き取られ村井夫人の許に生長し、ハーヴァード大學を卒業して世に出るや、彼は父の架けた橋を渡ることを好まず、独立して南米に貿易店を開き、明日の天地を開拓して居る。村井果して後ありや否や、鍵は殘されて將來にある。
尚ほ村井は老餘別にー家を立て、之を太觔の子清次郎に嗣がせた。
吉田の菩提寺たる海藏寺には門前右側なる形勝の高地に墓地を求め自然石の表面に、
村井保固之墓
と刻してある。戒名は
靈光院慈靄呑山居士
とある。森村男、法華津孝治、大倉和親、廣荑實光等多数親近者の奉献に係る石燈籠と玉垣、いかめしく繞らされ、吉田の産める偉人三チャンが永久に記念されて居る。
因みに墓地は古老の説に村井生誕の現場であると云はれ、然も数日の違ひで買入れの機を逸するきわどい所で手に入れたものである。
斯くして彼の産湯を使ったその同じ土地が又埋骨の地となつた。
昭和十五年四月七日筆者の訪れたとき、海藏寺門前の老櫻から花びらが、しづ心なく散りゆくさま床しとも美しとも喩へがたない風情である。滿地花吹雪、滿日春駘蕩、唯う長閑な気分が一面に漂うて居る。靜に墓畔に立ち春や昔の故人を思う。悠々たる八十三年の生涯が彷彿として去來する。此時寺僧檜槇月窓師、豊田、清家の諸氏と一同カメラに納まつた。別揭卽ちそれである。


(最後に帰朝したる村井の自筆)

(村井保固の墓・檜槇師の直後に見ゆる自然石)
右より豊田房吉、大西理平、海蔵寺住職檜槇月窓師、村井幼稚園長・清家晋)