吉田三傑「村井保固傳」を読む 37
相場(2)
紐育の三階で小錢を賭けた輸臝(勝ち負け)に味を覚えてから、そろそろ本物の相場に手を出して見るが、興味は又格別である。道樂も次第に嵩じて、何時の間にか深人りしたことに気が附いた時は既に遅い。今度は松山の公債売り飛ばし位で追い付かぬ。明治42年大昧30万円と云ふ大穴を空けて、日本へ勘定尻を送つてよこしたには本人も縮み上る。東京でも一驚を喫した。流石に森村翁の大腹で私財の提供に依り店の帳簿から拂拭してしまつた。そうして村井への手紙に、『あれは自分の私財で始末したから御安心下さい。道樂息子の尻拭いと思へば何んでもない。是と云ふも森村組と云ふ小さい仕事に、君の大才を用ゐるに不足であつた爲めであらう』と最後の一句でピリッと刺身にワサビを添へることを忘れなかつた。其頃森村翁の資産に對して現金30万円は相当の打撃で味るにも拘らず事もなげに引受けた襟度は見上げたもので、次回歸朝して当代と三人の席上、
『儂と君の間は自分のもの君のものと云ふ差別はない。お互いに金錢以上のもので繫がつて居るのだ』と云はれた際、村井は珠の如き涙をこぼしつつ『この御恩は一生働いてお返し致します』と眞實込めて感激したのも左こそと首肯かれる。この時の森村の手紙は骨身にしみ込んだと見へ、その感激のゆるむことのないやう、爾來死に至るまで30年間、肌身離さず守り袋として携帶し、到るところ一週一回は必ず取り出して拝読するのであつた。
同時に此時は本人も定めし大眼玉を喰ふことと、穴へも入りたい心持であつた其反對に、暖い情味の籠った森村の言葉に度膽を拔かれ人間も上には上があるとしみじみ頭が下がったいきさつを米國に歸つて漏らしたそうである。
併し一方には又森村が『森村組と云ふ小さい仕事に、君の大才を用ゐるに不足であつた云々』と云つたのは、単に一場の謙辭とばかり受取れぬものがある。
蓋し村井の識見の高邁と包容の大を以て政治界に入って居ったら、恐らく學友の犬養、尾崎に比して多く優劣を見なかつたであらう。
試みに当時の政界を物色すれば、彼は天分に於て襟度と云ひ風格と云ひ、松田正久と共通するものが極めて多かつた。卽ち松田と村井は瓜二つの双壁として、共に楝梁の地位を角逐したであらう。その松田に今数年の壽命を藉したら、原敬よりも一足先きに天下は松田のもの、であつたらうとは、毎度松田フハンの話題に上ったものである。この松田と雁行して然も松田よりは遥かに長壽を恵まれた村井である。若し彼が政界に入つて居ったらその造詣や測るべからずで、寧ろ或は犬養、尾崎を凌駕したかも知れないとさへ考へられる。
由来、森村は人を見る鑑識と才を愛する包容に特長を持つて居った。所謂英雄々々を知るで、夙に村井の材幹を認識して居つた森村は、村井を一商社に繫ぎとめてアタラ一生算盤と首引きに終らせるのを不本意と思ったに違いない。森村組大なりと雖も高が一米店を通じての商賣である。内地は陶磁器製造の一本槍である。從業員は上重役から下職工の末に至るまで、總勢幾千人としても範囲は限られて居る。其處へ使ひやうに依つては廟廊の上に立ち、世界を相手の晴れやかな任務に当たるべき大器を縛って置くのだから、勢ひ髀肉の嘆の捌け口を外に求めるのは自然の數である。
畢竟村井の相場イジリを見て看ぬ振りで看過した肚の底には若干この意味もあつたらう。
天空海濶の森村は乾分の才を愛する餘り、その欝勃の気を相場に吐かせたのである。又その邊の消息を知らぬほどの村井でもない。斯くして彼等は云わず語らずながら両心共通双情同嗚で相場に關する限り、一生無言劇の裡に諒解し合うて終つたものである。斯うなると沈默ほど大なる雄辨しである。
山中の賊を討つは易いが、心中の賊を討つは難い。あれほど身にしみて懲り懲りした相場である。当分の間は謹慎して居ったものの、ほとぼりが覚めると心中の賊がそろそろ 頭を擡げて來た。
第一次世界大戦が終つて、日本は非常な景気となり、成金日本の津々浦々まで凄まじい繁昌振りである。況してこれに幾倍輪をかけた米國はパーマネント、ブーム卽ち永久の繁榮が約束された逆上かたである。日本の鐘紡とも云ふべきユーエス、スチール株の如きは一時250弗を唱え、300弗は目前にありとされた。されば買えば儲け、儲ければまた買うで、一夜明ければ既に資産の大膨脹を告げて居る。この沸騰の真只中に居った村井である。神ならぬ人間が此渦中に泳ぎつつ、すでに600万円以上に膨れ上つた資産を、此上大スクープで一躍1000万円にのし上げ、全部を社会奉仕に投げ出してやらうとの肚である。意気天を衝くとは、此時の村井である。
然るに此狂熱のさなかに唯一人の天才バブストの予言が適中して、1929年9月27日、未曽有の突風襲來で、スチール株は250弗から奔落25弗となつた。滿目悽慘、死屍累々の中に敗亡顚落の村井を見出したとは運命である。流石に此時は本人も沈痛蒼白を極めた面持で地主に對策の相談に及ぶ。
正に一瞬一刻を爭ふ危機の巖頭で、一日放置すれば千丈の深淵あるのみ。電報打つにも協議するにも其餘裕さへない。両人突嗟の取極めに依り本人の持株一切を處分した上、不足は地主の分から補充しても可なりと、最後の土壇場にヤット踏みこたへることが出來た。
日本でも此時は喫驚仰天、飛電頻りに閃いて今尚ほ相場の重圍中に悪戰を続けて居るや否やを確かめるのであつた。
此時当代男爵から出した手紙が後に紐育の地主に着いた。抜いて見ると、白紙に、
正 義
の二字が大書してある。外には一語もない。蓋し父翁在天の霊が書かせたものか、凛たる神來の威力に頭が下がるのであつた。
さしもの大打撃も店には別段の迷惑をかけないで始末が出來た。丸裸になつた本人はこれで芿々したと、光風霽月なところ何處までも村井は村井である。