吉田三傑「村井保固傳」を読む 40

洗禮
大正6年2月3日彼は「鐵窓23年」で有名な牧師好地由太郎から洗礼を受けクリスチャンとして登録された。
彼にとって明治12年9月第1回の渡米までの26年間は一生の準備期間である。次に明治40年第53回誕辰までの27年間は活動時代である。
更に是より昭和11年2月死に至るまでの27年間は更生した信仰生活である。
殆ど正3分して区切りをつけて居る所は偶然ながら面白い。
最後の29年間の始め10年は心を籠めて真剣に道を求めた結果、遂に意を決して受洗の関門に突入したものである。
彼はキリスト教界の先覚者好地由太郎、山室軍平、本間俊平の三人を信仰上の師父と仰いで教えを受けた。見識と人格と熱烈なる信仰に於いて傑出したる三氏の彼に及ぼした感化は偉大なものである。
されど之にも優して最大の教訓は矢張り聖書からであった。
村井は常住座臥、殆どバイブルを離さなかった。讀む毎に時と所を誌し感興を惹いたところには傍線を引いている。即ち年月日と朝と夜を記入した外に「店」とあるは紐育の店を意味し「興」は興津「伊」は伊東「名」は名古屋、「宅」はリバーサイドの自宅、其の他太平洋、汽車中、キネオの避暑地で満誌傍線、毎頁所感で殆ど空白を余していない。就中彼が最も傾倒したのは使徒ポーロである。恐らく両者の性格に於いて共通の誘惑と弱点を見出した為、一層深甚なる同情と感激を繰返し体験したものであろう。
それと今一つ村井が信仰の力で破局の不幸は免れたものの定めし精神的に非常な苦戦をしたろうと思われるのは左の日記の一節である。「怒は怒に出逢いて其力を表すが如し。怒がその相手を見出さざれば可憐哉。彼は死滅するのみである」
「○○と我れとの関係につき、彼に相接て相戦うときは我怒気をおほだて、双方にらみ合うことになりて行ては必ず我は敗北するなり。如何となれば其の人と我の反目は、是れ即ち悪魔をして其目的を達せしめたのである。悪魔に接して術を行はしめず却って彼の術を変じて其の人よりその力を離れ、其の人をして眞人間と変ぜしむるのは、温かき愛情を其の人の裏にひそみ居る悪霊にそそぎかけるのが最も彼に勝つの方法である。彼と相反目して戦うときは我は術中に落ち入って敗北するなり。
神に祈りて神に戦うて貰うのが一番良い云々」
是で見ると平和と安靜裡に幸福な餘生を恵まれた村井の宗教生活にも、裏面にはポーロと同じ試練の下に、忍苦と自制の烈しい戰ひを続けたことが想像される。彼が朝な夕な出るにも入るにも聖書を放さず、杖とも柱とも依りすがって只管精進にいそしんだのは之が爲めで、聖者としての路を踏み迷はじと懸命の努力をした所以である。この意味で彼は、聖書の全篇を通読すること50餘回に及び細讀し味讀して記入の餘白なきに至るや、新に第二の聖書と取換へ、之にも同様の記載を続けて居る。韋編三たび絶つ代りに、彼は二たび聖書を取換へたのである。ことほど左様に日となく夜となく、手にする聖書でありながら、山室師は『翁は聖書を讀むたび毎、おし戴いて之を開き、讀み終ると又おし戴いて之を閉ぢらるる其神の御言葉に對する敬虔の態度が深く私を感ぜしめた』と嘆稱して居る。
第53回の誕生に更生を誓った村井は、26年間の準備時代と、26年間の事業活動に送つた過去の總決算をなすべく、猛然として茲に新人の新生活へと突進することとなり、既にして洗禮を受けいよいよ聖徙のー人となるや、神と合名会社を組織し、直取引を開始して事業は勿論、慈善に社会奉仕に總て悉く神の御旨を代行する外餘念がない。
彼は財団法人村井保固實業奨励会を設けて50万円を寄附したる外、學校に病院に幼稚園に救世軍に多額の義捐をなすと共に、一方村井夫人子息太觔にも資を殘してそれぞれ安定の處を得させた。
世には逆に取って順に守るものあり。逆に取つて逆に散ずるものもあるが、村井の如きは順に取って順に守り、更に順に散ずることを忘れなかった。英雄頭を回らせば即ち神仙。彼は正に處世の上の上を往ったものと云へる。
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眞の平和は人が自己を省みるに敏にして他を責むるに鈍なる時に見ることを得るなり。
不和争亂は自己を顧みるに鈍にして他を責むるに敏なる時に起こるものなり。
最も偉大なる事業は純潔なる生涯なリ。取込むに非ずして與へる生活なり。
(村井の聖書記人)