伊予吉田の歴史と文化 吉田祭礼の行列絵巻(2)

 お祭りは、御家中のお練りに続いて、町人町のお練りとなる。威風堂々から町方の行列へと時代絵巻は移ってゆく。
まず山草や竹で飾り付けた「塔堂車」が町方の先頭に立つ、別名「左義長」という小正月の火祭りは、餅を焼いて息災を願っていた。
次は裏町三丁目幟に出し飾り(壺に枝垂柳)の「御神餅」「懸け鯛」で、絵巻には当時それぞれ二人が担いでいる所が描かれているが、現在は猿田彦大神の後に練車でおねりに加わっている。
以下、本町壹丁目幟に出し飾り(軍配)の三国志で有名な「関羽雲長」練車、裏町壹丁目幟に出し飾り(月か日輪)の神功皇后重臣武内宿禰」練車、「神功皇后」は本町三丁目幟に出し飾り(瓢箪)だが、老朽化のため無くなった。
続いて、魚棚三丁目幟に出し飾り(花)の「七福神」は恵比寿だけ練車に乗っているが、吉田には住吉神社や漁港があり、漁業の神様・恵比寿さんを屋台に乗せたのではないだろうか。
更にパレードは続き、裏町弐丁目幟に出し飾り(笠)の「楠木正成」練車、魚棚弐丁目幟に出し飾り(三つ巴に交叉する矢)の「太閤秀吉」練車、魚棚壹丁目は、幟に出し飾り(日の丸扇)の「八幡太郎義家」練車だが、現在国安の郷に保存していると聞く。
これらの町内八カ丁より繰り出す山車は、総漆塗りの二階建てで、飾り幕は西陣織の豪華絢爛なものである。
かつて吉田藩には御用商人の法華津屋を屋号とする、三引高月家と叶高月家の二家があった。
郷土史家・宇神幸男著/現代書館発行の藩シリーズ「伊予吉田藩」によると
『両高月家は藩御用の物資・物品を扱うのはもちろん、海運業、金融業、酒造業、不動産業などを商うほか、紙の専売という特権を与えられた吉田藩きっての豪商であった。高月家は代々、丁頭や町年寄として町人町の町政にもあずかった。
三引高月家は甚十郎を名乗って世襲した。宝永二年(1705)、天下の豪商淀屋廣當(こうとう)(五代目辰五郎)が奢侈(しゃし)を咎められて闕所(けっしょ)に処せられたが、その直前、蓄財した名宝・名器を法華津屋三引に頼んで吉田に送ったという。法華津屋三引の経済界での存在の大きさが窺われる。
魚棚一丁目に本店を構えていたが、宮野下(現・宇和島市三間町)、父野川(現・鬼北町父野川)に支店を設け、周辺の村々から和紙を買い付け、大坂に回漕した。
天明元年(1781)から寛政四年(1792)にかけての記録では、大坂の紙問屋平野屋と加嶋屋に泉(せん)貨紙(がし)、杉原紙、半紙などを販売し、銀一三〜四五貫目の利益を上げている。
藩への献金も莫大なもので、しばしば褒賞・恩賞を賜り、藩主とその家族が高月邸を訪ねることも珍しくなかつた。そのため、三引高月家は浜屋敷に藩主接待用の一室をしつらえた。また、屋敷の一部に物見(観覧席)を設け、藩主と家族は盆踊りや八幡神社祭礼のお練りを見物した。
叶高月商店の主人は与右衛門を名乗り、本町二丁目に店舗を構えていた。叶高月は酒造業、質商も経営していた。法華津屋叶も献金怠りなく、帯刀を許されたり、伊達家家紋の三段頭を着衣に使用するのを許されたりした。叶は吉田藩ばかりでなく、隣接する大洲藩にも献金、用立てをしており、その財力ははかりしれぬものがある。』と記されている。

 両高月家など豪商は八幡祭禮に多額の寄付をしたのであろう、絢爛豪華なお練りには莫大な経費が掛かっていたものと推測される。
さて、お祭りのガイドブックに各町内の幟の上にある「出し飾り」を紹介しているが、その由来については記載がない。ブロガーの生家は本町1丁目で横堀に面している。本町壹丁目は、(軍配)を出し飾りとして掲げているが、商売繁盛の神様「関羽」に関連するものなのだろうか。その山車の見返り幕は「紅葉狩」で鬼女の首の図柄で因縁の幕らしい。
今年(平成30年)10月に吉田に帰った時、本町1丁目の山車を組み立てている所を拝見した。町内の古い知り合いが一生懸命若手を指導していた。裡町1丁目は既に山車が完成して石屋さんの店の中に武内宿禰練車があった。この辺も7月の豪雨では水に浸かったと店主に聞かされた。

一句
秋空や幟はためく出し飾り

(吉田町おねり保存会・資料を引用)