吉田三傑「村井保固傳」を読む 43

海外投資の二三

朝鮮

とつ國にうつしてや見ん櫻木の
   かはらでほこる花のいろかを

これが村井の海外主義である。同じ南予出身の佐藤政次郎の朝鮮における農業経営を後援して、投下した資本は次第に増加して、最後に90万円と云う巨額に達した。殊に面白いのは是だけの融資に、書付一本も取らず相互の信用で全然介意する所がない。佐藤の事業が大成してその死後子息から奇麗に清算されたので、両間の信頼と大腹が一層輝いたものである。

テキサスの米作

次に村井の力を入れたのはテキサスの米作事業である。森村組の同志で10余年米作に従事したが不幸にして失敗、一切を売り払って引き揚げた。
されどもともとこの事業は森村組が米国貿易で成功した縁故もあり、米国における米作の黎明期に日本の米作農を移植して、幾分貢献する所あらんとの意味もあっただけに多少の収穫は今日に残っている。
本來米國でも両カロライナ州地方で、昔から米作は行はれて居つたが、之は頗る小規模で殆んど物の數でなかつた。然るに大農式に米作の機械化経営がルイジアナ、テキサス方面に開始されて、多く年所を經ない頃であつた。從つて米の種類なども南京米型のホンデユラスと、以前に輸人した日本米型と二種限られて居つた。その際筆者の手で日本から各種の日本種を取寄せた結果『神力』の一種が特に土地に適し多収穫を擧げることが證明され、今まで日本米と云えば只漠然と一種類のみと思うて居ったた考へから目覚めた。爾來『神力』の名が廣く知られ愛用されることになつた。その中に發明硏究に熱心な米国人のこととて収穫量の多少、稲の殼の長短強弱、成熟の遅速等を精密に試驗し,各種の變り種を交叉して、最善最適種を新生するなど、此の分にて進めば米作の本国たる日本に匹敵する能率と効果を擧ぐる日も遠きに非ずとさへ、嘱望されて居る其發端をなした日本人の米作経営は、確かに記録に値する貢献である。
更に當時同伴した日本人小作農と労働者の殘留したものは、その勤勉と平和な遵法的市民としての特質が一般に認められ、米人との關係も至極円滿で、今尚ほ米作棉作園藝に従事しつつ、多數の第二世を挙げ中には第三世を設けたるもあり。
村井の米作こそは成功しなかつたが、植民事業として大和民族の下ろした種子は此處米南の一角にも、永久の繁栄が約束されて居る。

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nobleとは神の意を受け万難を凌ぎて、是を事実に現はす気品なり。
人は神の神殿なり。人に事ふるは神に事ふることなり。人になしたる善も惡も皆神に向こうてなしたるなり。
   (村井の聖書記入)

南米投資と村井太觔の南米貿易

次に南洋方面にも村井の企業的關心は多大の収穫を挙げたものであるが、以上の總てにも優して晚年の彼が最大の興味を持つたのは、南米である。外交官を退いてブラジルの農業に從事した古谷重綱に對し、或は福原八郎の南米柘殖会社に対する等、何れも少なからず後援する所あつた。更に小林美登利のキリスト繁主義に基づく聖洲義塾と、植民事業には始終渝らざる同情を以て、投資を続け將來の成果を期待したものである。
最後に投資ではないが、子息太觔のアルゼンチンの首都ヴエノスアイレスに於ける貿易事業は多大の希望が寄せられて於る。蓋し今のアルゼンチンは50年前の北米である。廣漠なる沃野と無限の天然資源を有するアルゼンチンが將來北米に劣らぬ繁榮を約束されて於ることは、南米通の均しく認めて疑はざる所である。今日でも首都ヴエノスアイレスは南米の巴里と云はれ、高級文化都市として高く評價されて居る上に、今後人口増加と資源開発の進むに連れ、國は北米と、市は紐育と雁行する日があるであらう。此處に貿易店を有する太郎は、明治9年の豊サンであり。今の村井店は將來の森村組たる聲譽を博することも充分期待される。斯くして乃父の北米に於ける武者振りが、乃子の南米貿易で再版されることになれば、地下の村井も莞爾として微笑するであらう。
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此世は鍛鍊所として最も適当な道場である。
敵に對しては努めて沈默を守れ。

「神の小なるものが人である如く、人の大なる者が神である」とは至言である。愛は智よりも大にして力強し。エホバにありても愛はる屢々智に勝つことがある。神に於ても人に於けるが如く情は智恵以上の勢力である。
  (村井の感想)