吉田三傑「村井保固傳」を読む 48(最終回)

村井夫人キヤロライン
村井の學友、犬養毅は村井の親近者に、『今の内に村井の財産を日本に纏めて置くがよかろう、左もなければ萬一の際米國人に取られてしまうぞ』と忠告したことがある。これより先き村井は夫人や太郎にそれぞれ産を分けて、安處に差支えないやう取計うてあつた。その後更に増額しやうとの議が出たととき、夫人は『これ以上に金の必要はない。金は多く持てば持つほど、管理に骨が折れるばかりだ』と云つて受けなかつた。或る時夫人は救世軍山室軍平に『私の夫は金を儲けることが上手です、貴下はどうか出來るだけ多くの金を彼から引出して、有益な方面に使つて下さい』と云はれた。
村井が相場などで失敗すると、夫人はいつも『お金は有っても無くても貴下と云ふ人間に何の変わりもあるものではない』と云つて慰める一方、自分も平生からたびたび『Money makes coolness 金は人間を冷めたくする』と云つて居る。斯ういふ建前であるから犬養の杞憂を實にすべく、村井夫人は余りに高潔で、弗萬能の普通米國人には珍しく金銭に恬淡であつた。
由来村井家には不文の家憲があつた。それは如何なる場合にも、店の問題を家庭に人れることは主人の耻である。同時に家庭の些事で主人を煩わすことがあつては、主婦の責任であると云ふのである。されば一日の業を終へて家庭に帰った村井は、一個の好々爺となり何事も『ネネ、ネネ』(夫人を斯く呼ぶ)と女王の切り盛りに一任し快然として晩餐の席に就き、うまいうまいと賞讃しつつ、団欒の樂に浸るのである。
ー方夫人は内事は勿論、交際往来の總てに亘り自ら、折衝して毫も夫を煩わすことなく『村井さん、村井さん』(夫人は他人に對しても常に夫を斯く呼ぶ)と祭り上げて晩酌ー本と別にしたしか摘まみ物か必ず一二品の日本ものを供へることを忘れない。即ち主人本位の前には總てを犧牲とし、ー切を取纏めて然も其犠牲と苦心を外に現さず、心の底より幸福を喜び周囲の空気を和やかにするのである。
或は時にー身上に不快があつても絶対に忍びこらへて假りにも相手に感づかせるようなことをしない。其沈勇と自制は昔の典型的日本婦人を思わせるせるものあり。
然も夫人は尚自ら足れりとせず、自分が如何に勉強しても、真の日本婦人になり切れぬのが情けない。こればかりは村井さんに気の毒であると謙譲するのである。
村井は海鼠を好み又よく人に勸めたものであるが、或る時『この海鼠を始めて試食した人は余程の英雄である。一見醜悪に見える海鼠を食べるとは、始んど命がけでなくては出來ぬことだ』と語ったことあり。その海鼠を夫人に勧めたときには夫人も聊か難色を示しつつ、やつとの思いで咽喉に通したものである。
一説に夫人も『強いて之を喰へとなれば、私は米國に歸へされても構ひません』
と硬論を主張した話もある。
何れにしても夫人が自己の犧牲に於て、總てを忍從した苦心は驚くべきものがある。伊東の別壯はもともと或る富豪が豪奢の限りを盡した結構だけに、善盡し美盡したる日本趣味の殿堂で、村井が譲り通り受けた頃でも二十万円以下で、これほどの設備は出來ないと噂されたものである。現に山下亀三郎が始めて村井を伊東の別壯に訪うた時、車夫が門前に梶棒を措いて『村井さんの別荘です』と云う山下は『イヤ間違いぢやないか。村井と云う人はコンナ豪壮な邸宅に住まふ方ぢやない』と、併しいよいよ内に人つて二度ビックリ、覚へず兜ならぬ帽子を脱いだものである。それほど輪奐の美を極めた結構であるが、併し徹頭徹尾、古風な日本式である爲め、洗面所と云ひ便所と云ひ寝具に至るまで、今日の文化人には不適当である。然るに村井夫人は此處に住みながら一度も一箇所も改造を施したことなく、純然たる古代日本流一点張りの生活で、数ヶ月を過した辛抱力の強さには、後になつて今更らの如く驚嘆された。
この別荘は遺言状を以て森村家に贈られて男爵家にても喜んで村井の好意を容れた。
前年高貴の方の御思召として、一ヶ月ばかりこの別荘に御滞在光栄を拝したことあり。男爵夫妻は恩命に接して、家門の名誉これに過ぐるものなしと、諸般設備の爲め仔細に家内を檢分して見ると、驚くべし以上の通りで現代式文化構造は全然出来てゐない。これではならぬと昼夜兼行、大急ぎに改造を施した結果、面目一新、見違えるばかりに便利と美觀を兼備したものとなり、漸く安堵して有難き御用命を拝したものである。
或る時村井夫人が心置きない婦人達と打解けた物語りの折り、『自分も村井さんを幸福にして上げた代りに、村井さんも自分に何ーつ不足のない一生を送らせてくれたから、私共両人として毛頭後後悔する気分は未だ曾て考へたこともない。併し他の誰れ彼れに對しては異国人との結婚を餘り勧めたくない』と眞實こめて述懐したことあり、夫人が中心の苦労の如何に多かつたかを語るー端として首肯かれる。五十年に近い夫婦生活を通じ、夫婦喧嘩とか家庭の風波といふことは、未だ曾てー度も知らず、家庭はいつも常春の麗らかさを保ち、子女の手前も召使の上にも、主人をー家の最上に置き主人の爲めには總てを供へ、万障を犠牲にして主人尊崇のー點に集注したものである。
斯ういふ相愛と相尊の結晶で、出来上がった家庭のBetter halfを成し合うた村井の追悼会に、村井に關する数々の思い出語り合うた中に独り松方幸次觔が
『村井君の成功の半ばは確かに村井夫人の内助の功に帰すべきである』と一言、口を切つた外には夫人の美徳と忍苦を偲ぶ話の更に出来なかつたことは、親しく村井の家庭の實際を知る婦人達に、幾分物足りなさを感ぜしめた。同時に地下の村井自身にしても若し知るあらば、定めし『我がネネ』をネグレクトされた点に奇異の目を瞠つたらうとは、後日筆者に漏らされた或る婦人の不平である。
村井夫人の逸話を語った後に、今ーつ忘れんとし忘れ難い思い出は夫人の動物愛である。須磨に療養中あの海濱の街道を日々幾十と東西に行き交ふ駄馬、牛車のやつれた姿で、重荷を運ぶさまを見る夫人は惻隠の情に堪えない。何んとかしてもの云わぬ動物の勞苦を慰めてやりたいと心に念じせめてもの思い附きで、路傍に飲用水と若干の飼料を備へ、人夫と牛馬の休息の料に資したことあり。
テキサスに旅行した際、宅の鶏舎で目ざとくハムシの多数群がって居るのを発見し、家内を促して衣類の汚れるも厭わず、共々に午後の半日をハムシ退治に費やしたのは無心の鶏に取って救ひの神と如何に嬉しがられたやら、其代り汽車で桑港に出るまでの二三日間、夫人の衣服に付着して居つたハムシに少なからず惱まされたもので、後日その話を聞き及び一層気の毒に堪えなかった。
上述の追悼会果てて後、列席の婦人達は申合せて一同上野の動物園を訪ひ、更に淺草觀音に詣でて、動物や鳩の群れに飼糧を振舞ひあの村井夫人のやさしい靈魂を慰めるため、これに越した供養はありませんと、かたみに喜び合って別れを告げた。女性同志の思いやりには在天の夫人も定めし納受の涙を催したことであらう。

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村井の野性に磨きをかけ彼の粗放に統制を加へたのは夫人である。夫人の熱愛で肺病の大患から一命を取り止めたのは勿論、精神的に肅正と訓練とリフハインメントで村井其人を改造したのは夫人である。
夫人の村井に於ける見へざる感化はべターハーフの名を辱めぬものがある。然も村井の家庭がありふれた女尊男卑に墜せず、何処までも日本の典型的家風を維持したのは村井の見識にも依るが、寧ろ主として夫人の賢明に歸すべきである。
夫人の村井に於けるは北の政所の秀吉に似たものがある。若し秀頼が北の政所の所生であったら豊臣家は滅びなかったらう。村井夫人の内助がなかったら村井の成功は半ばを減じたであらう。流石に松方幸次郎の村井夫婦観は金的に中って居る。
アメリカ婦人を妻にした某博士などは彼自身が半ば西洋人になったやうに批評されたが村井は反対に夫人を半ば日本婦人に作りかへたやうである。斯くしてベターハ一フはお互ひさまであつた。

【後 記】
既に生がある以上は必ず死がある。分り切つた事ながら古來人の世の大事として理念や興味を以てよく取り上げられた問題である。
村井と村井夫人がおのおの死處を得たことは既に述べた通りで、人間が殊更に求めても得られないことが、奇妙に偶然の如く與へられた所に彼等の幸福があつた。
然るに今又両人が揃ひも揃ふて、死に時を得たことを云えるやうになつたとは不思議な廻り合せである。死すべき時に死せざれば死に勝る耻ありと云ふが、是れは人爲に依る時のことで、自然の命數により病死する場合には当てはまらない。然もその字自然の病死が注文したやうに最善の時に起つたと云うい至っては、宿世の善因か約柬か、若し人は死ぬる時のー念が生を引くと云ふことに、真理がありとすれば幸福と滿足を以て世を辭した両人の後世は善いに違いない。
大東亜戦争の勃発により、日米両国九十年の親交が破れて対敵の地位に立ち鎬を削る仲となつた今日、假りに両人が生存して居つたら何うであらうか。國家の公事を以て個人の私を左右すべきでないことは勿論であるが、其處に又自然の人情として割り切れないところがある。從つて両人が互に言うに云はれぬ煩悶と苦難を體驗したであらうことは容易に想像される。然るに僅かの違ひで両人ともそういふ複雜な苦境に立つことを免れたのは何んたる仕合せであらうか。普通に長壽は望ましいことながら、村井と村井夫人が何れも申分のない死處と死に時を得たことは寧ろ喜んで善いかも知れない。或は兩人にして見れば『ソンナ筈はない、其時は又それで善處する途がある。矢張り長壽をして居つた方が善い』と、お叱りになるか。記して在天の英魂芳魄に御伺ひする次第である。


村井保固傳  終