吉田三傑「村井保固傳」を読む 44

理想的散財
古來富を作つた人は枚挙に遑ないが、その富を上手に散じた例は多く聞かない。
東洋には錢神傳や貨殖傅の如き富に就いて語つたものは多少あるが、出來た富を着用し、これを巧妙に散ずる美徳を説いたものは、殆んど絶無と云つても善い。詰り蓄財はあるが散財は古來柬洋の繁科書になかつたのである。西洋でも同様の傾向であつたが、近代になつてロックフエラー、カーネギーなどは漸く散財の要を認めて,熱心に其の方法を研究しつつ巨額の富を公共に寄附して、文明の進歩に貢献して居る。
明治35年松方正義侯が洋行した際、カーネギーが紐育の自邸に侯を招待して晩餐を共にした席上カーネギーが『私は是れから日本の恩人にならうと思いますが、貴公には何んであるか御想像が附きますか』と云ふ。通譯に侍した紐育總領事内田定槌が『例の大図書館でも建てますか』と問ふ。『否な、日本人はー體に體格が小さい。之は運動が不足な爲めと思はれるから、私の故國スコットランドに行はれる杖球(ゴルフ)を獎励されたらば、日本人の體格が改善されるでせう。そのゴルフ道具一式を侯爵に差上げるから、御歸國の上は貴国民にゴルフを獎勵なさい』と云つた。即ちカーネギー翁は日本にゴルフ輸入の元祖の中の一人で、日本人の體格と健康に金で買へぬーつの贈り物をした譯である。因みに明治42、3年頃米國でもボツボツゴルフが行はれだしたことを思うと、米國に於けるゴルフも恐らく日本と同じ頃に芽生えものか、或はカ翁の手引きが因をなして、日米ゴルフの双生兒を挙げたものかー應の想像が浮んで來る。
このカーネギーが『富を作るのは善いけれど、作つた富を散ぜずに死ぬのは富豪の耻である。』と云つたことは千古の金言として賞讃される。
更生後の村井も毎度『予の財産は神のものである。予は之を管理して神に對し精細なる計算報告をする責任がある。』と云つて居る。実際彼は始終この點に注意し、適當なる散財法を研究し實行することを努め、世の富豪が陥りやすい多くの誘惑と惡徳から遠ざかり、只管精進大事と守り続けた。
從って各種の公共事業を始め、小は個人の救濟にまで喜捨した額は莫大なものである。然も成るべく隠れて人目に立たぬやう、陰徳を積む方であつたから、当事者以外は殆んど世間に知られてゐない。
熊崎家へ奉公時代に朝タを共にした婦人に、五島よねと云ふ方がある。夫の正久と二人で其後も色々村井の爲め親切に斡旋したものである。このよねさんが昨年九十に余る老齡で死ぬるまで、村井は毎月15円づつを送り、尚自分の実家の人々にも終身年額を定めて、仕送りを続けることにしてある。中には本間俊平師の如き村井からたび興津の別荘を贈ると云はれしも辞退して受けなかつた聖徒にふさはしい例もある。
最後に施與に關する村井の主張がある。曰く『人にはおのおの天分と云ふものがある。この分に過ぎた金錢を持たせると、一時に浪費したり或は友を誘うて害悪の分野を廣くする弊は恐るべしである。忘れても人の天分以上に金を持たせてはならぬ。其人を益しないのみならず身を誤る基をなし、親切却つて毒になる』と云ふのである。
村井は紐育の店で忙しい貿易戰のさなかでも暇さへあれば魚釣り気分になつて相場をやつた。詰り相場の爲めの相場と云ふよりも、寧ろ趣味化された相場で気分を転換し、少閑の娯樂をたのしむのである。本物の魚釣りも少年の頃から、好きであつただけにキネオの避暑地でも始終それを試み、日本の友人に舟を浮べて魚釣りをして居る漫畫を書いて送ることあり。潮合を見よ。潮時に乘じて漁をしろと魚釣りの趣味を毎度金儲けに引用するのであつた。
圍棋は早くから嗜んだものである。素人としては五六級程度で、これも日記に
『碁を打つ時にフト負けてはならぬと云ふ心と、取つてやらふと云ふ心は結果に於て大なる差を生ず。實業家の最も大切なる點なり』。
と誌してある通り、碁の遊戯を実業的見地から觀察する所が村井式である。森村翁、新井領一郎、法華津孝治等の好敵手と、暇さへあれば接戰して居つた。就中新井とはリヴアサイドの宅が差向いである所から、夏など夕刻食事が濟むと、玄關脇に碁盤を持出し獨りでカチカチ石の音を立てて居る。相手の新井も友欲しやの思いは同じ、鹿の溪水を慕ふ如く、憎さも憎しと忽ち挑戰に應じて碁がたきの試合が始まる。
されど晩年の趣味として彼が最も興味を感じたのは、運動と遊戯を兼ねた一石二鳥主義のゴルフである。奇妙に圍棋にしてもゴルフにしても村井の方が、新井より一日の長があつた。併し何れも自分には天晴れの天狗であつたから、米國ゴルフクラブで偶に長老組の優勝番附に入り、ゴルフ雜誌にでも出ると得意の鼻をうごめかしたものである。


親しき比燐 村井保固邸(右)新井領一郎邸(左)
ニューヨーク郊外リヴアサイド所在

キネオ避暑地より永井儀三郎に宛てたるもの
畫中の釣舟は村井の書入れに係る
大正12年8月)