吉田三傑「村井保固傳」を読む 36

相場(1)
以上は病にしても疵にしても致命傷と云ふほどではない。然るに最後の相場癖に至つては病膏盲に入ると云ふか、命取りと云ふか、ー度ならすニ度ならす、大痛手を受けて沒落の瀬戸際に瀕したことあり。自分にも涙を以て改悛を誓ひ、極力抑制したやうであるが、遂に死に至るまで相場と云ふ魔物から完全に解放されなかつた。
この相場の取附きは紐育在勤の初期である。否な慶應の寄宿舎で、彼の机上には相場表が置いてあつたと云ふ話が傅はつて居る所を見ると、病気の潜伏期は早やく在學中に萠したかも知れない。其頃紐育在留の邦人は米人との社交があるでなく、倶楽部はなしこれと云う戸外の娯楽もないから、自然少數の日本人が集まって談笑する其の間に、一番手っ取り早い遊戯が花合である。少額ながら金を賭けて眞劍に輸臝を爭ふ興味は又格別である。領事の藤井や店の連中では永井、法華津と云ふ手合いが定連である。夕刻帰りがけに村井からアパートの鍵を渡しておく。法華津が其の鍵でソット村井夫人に知れないやうに入って居る時、絹ずれの足音でもすると慌てて机の下に隱れるが、生憎夫人が何時までも出て行かれぬで閉口することあり。藤井領事などはテーブルの下から這い出して大笑ひになつたこともある。この花合で法華津が藤井の金鎖を卷き上げたことあり。後年京都の御儀式に參列する藤井が永井と同車した際、藤井から『ォィ、あの時の金鎖を法華津はまだ持つて居るだらうか、』と問われて老人同志が昔話に興じたものである。
斯様に、数々のエピソードを殘した当時の花合に、中心人物として村井が熱を揚げたのは申すまでもない。
一度村井の歸朝中、日本橋の藏多家に先代森村翁、大倉老、新井領ー觔、田中實、田中幸三郎、村井等の幹部連で宴会が催された。席上何かのキッカケで博奕のことが話題になつた。スルト村井が何心なく『社長さん、貴下は博奕を御承知ないからお嫌いでしょうが、一度試して御覧なさいなかなか妙味がありますよ』と云ふや、森村翁勃然として顔色ー變、青筋立て、『博奕をやるなんて以ての外だ。誰にもあれ博奕をやるやうな不屈者があつたらピストルで打殺してやる。』と凄まじい權幕で怒號された。一座愕然、取りつく島もなく、しらけ渡つて言葉を出すものさへない。折角の宴会もこれで稹々に散会してしまつた。翌日、田中實が高輪に伺候すると、『昨夜は飛んだことになつて失禮しました。實はアンナにまで云はなくても善かったのだ。村井君は米國の總大將で何もかも心得て居るから害はない。併し總大將が善いとなつたら、外の店員や人夫まで盛んに博奕をやりだして、店の潰れになるからアンナに云った迄さ。無論村井君は特別ですよ。』と天気晴朗で夜來の嵐は影も留めてゐない。從つて老大倉の宴会やり直し案も実現を見なかつた。併し森村翁は以前神戸に於ける花合の件も耳に殘つて居り、折もあらばと待っていた所、この博奕談を利用したもので、ピストルは空発に終つたものの『博奕禁制』と云ふ社規振肅には確かに手應へあり。内心その収穫に微笑まれたものである。
藏多家事件は村井の生涯、森村から唯一回の大渇を喰った失敗の記錄である。併しこれで自分は大將のお目こぼしに預かって居ることが判つて見れば、一方に自分だけは公認された感じもせぬではない。