吉田三傑「村井保固傳」を読む 35

道楽

次が道樂である。松山遊學中道後遊びが、病みつきで養母の虎の子の公債証書に羽根が生へて、飛んでしまつた失策は大きかつた。本人はこれで免疫されたから、其後は極端な道樂に堕しなかつたと云つてゐるものの、疵は何處までも疵である。慶應在學中は近い品川で浩然の気を養ふても尚ほ足らす、果ては福澤先生に一代の難問を提案して叱られたことあり。渡米して後も『僕は上半身が神で下半身は野獸だ。君等は善くコンツロールが出来るものだ』と親しい間でこぼしたものである。後年キリスト繁に帰依して聖書を愛讀するやうになつてから、就中最も愛着を感じたのは使徒ポーロである。
是は同病相憐れむ意味もあったか、ポーロが羅馬書第八章に、
われ願ふ所の善は之を行はず。反て願はざる所の悪は之を行へり。
と云へる一節の如き特に深く共鳴したものである。
要するに是れ又信仰と自己反省でヒドク脱線する迄には至らなかった。

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或る航海中に乘合せた牧師が船客の年齡を調べて居る。問はれるままに村井が20歳と答へる。相手は怪訝な顔で繰返し問ひ直しても同じ返事である。牧師先生真っ赤になつて、「人を馬鹿にする。そんな筈はない。嘘だ」と散々の立腹に村井も真面目になり。「それぢや譯を申しませう。一體人間は20歳になると先づ成長が止まって體格もきまつてしまふと云われております。だから私はそれから先きは年を勘定する必要がないと思ふて、何時までも20歳説を持って居る。本来年数で年寄りだ若い者だと老若の別を附けるのが間違いである。年が少なくても弱い者もあり、年が多くても強い者もある。30歳で死ぬる人の20歳と、60歳になって元気な人の40歳とドチラが若いと云うべきであるか。若くて耄碌する人もあれば年取ってだんだん偉くなる人もある。此意味で私は成年になつた時を紀元とし生きて働いて居る間は何時までも20歳と云う建前で居ります」とまくし立てたので牧師も「成程それは面白い」と笑い話で終つた。