吉田三傑「村井保固傳」を読む 41

説教行脚

昭和6年の村井は本間俊平師夫妻と郷里吉田に歸り、森岡天涯を柬道主人として南豫地方に3週間53日間と云ふ説教の猛行脚に出掛けた。
何がさて功成り名遂げて、身も輕く心は解放されて空飛ぶ鳥の如く自由である。
郷里の父老と竹馬の友は昔の三治(村井の幼名)に愛の手を拡げてくれる。青少年は理想の先輩、憧れの標的として仰ぎ望む。彼が滿幅会心裡に信仰を語り努力泰公を説いて、循々倦む所を知らなかつたのは勿論,本間師の烈々火を吐く熱演で神往魂飛の感あらしめたことは想像に餘りがある。
殊に旅の宿りの夜、団欒の興が乘ると彼は起つて隠し藝の與市兵衞を踊り、満座腹を抱へて絶倒するなど、當人の得意は正に絶頂に達したものである。
この時の行脚はよほど嬉しかつたと見へ、村井の死する数日前本間師夫妻が見舞に行つた際、別れに臨んで彼は、『奥さん、今一度あの與市兵衞踊りの旅をやって見たいなー』と咏嘆して瞑目一番、遙に當時を想望するもののやうであつた。
更にこの行脚で縁を結ばれたものか否かは判らないが、本間師と南豫、特に村井の郷里吉田、を俯瞰する絶景法華津峠との間に面白い逸話がある。もと松山に多年在往した米人宣教師が、日本人伝道師と一緒に布教の途次、南豫方面に赴く際、この法華津峠を往来して明媚な風光と快闊な眺望を賞で、山路の苦労を忘るる思いをした結果、両人の合作に成る讃美歌409番が出來た。斯くして『山路越へて』の一遍は今日世界のキリスト教界に歌はれる名歌の一となり、法華津峠はその誕生の聖地となつたのである。左の談話は本間師が姉に当たる老婦人の臨終を語つたもので、其処に又讃美歌『山路越へて』が奇しき威力を現はして居る。
『先達て私の六十六になる姉が死ました。それが危篤と云ふので医者が行って診ると、(山路越へて)の讃美歌を歌つて喜んで居るのです。あまり喜んでいるから醫者は聽診器がつけられない。何處が悪いかわからぬ。そして「よく来てくださった。私は神様の御蔭で樂しい生涯を送らせて戴きました。今私は莚の上に居りますがもう天國に居るようです」と云つて喜びに溢れ一切を感謝して死んで行きました。医者がこれを見て感心してしまひ、「私はつまらぬ生活をして居る。私はこんな生活を捨てねばならぬ。大變な教訓を受けました」と云つて後に記念の爲め、讃美歌の番號に因んで梅であったか櫻であったか、409本の苗木を村に寄附して植附けたとのことを私に申越されたのです』云々。
村井と本間師、法華津峠と讃美歌、老婦人の臨終と『山路越へて』、医者の感激と植樹などからみ合つて果てしもなく連続するエピソードに美と眞と善が流れて居る。
因みに『山路越へて』は改編されて今は444番になつた。

やまぢこゑて ひとりゆけど
主の手にすがれる 身はやすし
まつのあらし たにのながれ
みつかいのうたも かくやありなん
みねのゆきと こころきよく
くもなきみそらと むねはすみぬ
されども主よ ねぎまつらじ
たびぢのをはりの ちかかれとは
日もくれなば 石のまくら
かりねのゆめにも みくにしのばん

村井が又老婦人の如く、同じ法悦に浸って世を辞したことは佐もこそと肯かれる。
この行脚の講演は『活ける泉、本間先生と村井翁』と題し四方叢書第16篇として出版された。 .
村井は一度本間師に對し、親友法華津孝治と山下亀三郎キリスト教に導いてくれるやう依頼して渡米の途に上つた。本間師早速山下を訪ふて説く所あつたが、手應へなかつたと見へ匙を投げて引下つた。法華津又同斷で是れも無縁の衆生として棒を引かれた。その癖法華津はクリスチャンとしては長上に先代森村あり、先輩に村井あり、更に愛婿の鎌居は本間門下の熱心なキリスト?徙として知られて居る。四面楚歌と云ふことはあるが、本間師の正面攻撃を加へると彼は四面讃美歌に囲まれながら、遂にアーメン党の門を潜らなかつた。斯くして村井は死に至るまで両親友の入信を祈つて止まなかったが、その実現を見ずに逝かれたとは本間師の語る所である。
その本間師が一度名古屋の村井邸に泊つた夜、梁上の君子に見舞はれて財布から時計まで攫はれてしまつた。飛んだことと気の毒がる村井に對し、平然として、「いつかこの泥棒を神の前に呼び戻して見せます」と云った本間師である。知らず梁上氏たるものこの本間師の祈りに手應へありしや否や。
但し本間師はもともと泥棒に狙われる資格を備へて居る。彼は説?のついでに『私は毎日三時間より寝ない。その代り寝たら最後寝衣を脱がされても知らない程ぐつすり寝込んでしまふ其の上、私は年中窓を開け放しで置く』と語つた。
これでは泥棒においでなさいと誘ひかけるやうなものだ。これで來なければ泥棒の方が本職怠慢、どうかして居る。


伊予吉田町村井幼稚園に於いて)
(右)本間俊平師 (左)村井保固翁
      昭和6年4月