吉田三傑「村井保固傳」を読む 38

相場(3)
翌1930年6月8日村井は紐育から、日本の伊勢本ー觔に左の手紙を寄せて居る。
(前略)さて小生も前年來当方の經濟界見習の爲め餘計の事をして、可也手傷をいたし候。前年も森村翁御存命の節、可也の痛手を受けたるにこりもせず、自分は可也この道には通人であると思ひしが、迷ひの源にて候。今更閉口の外なし。
(中略) 此秋こそは歸朝して久々振りつもる失策談など語りたいと思うて居ります云々。
米國經濟界の見習も随分高価についたものであるが、本人は閉口の外なしでアッサリ片付けて居る。
当時紐育のクラブでは、多數泡沫会社の株券が今は反古紙となつたものを壁上に貼り附けて在りし日の繁榮を偲ぶ笑話の記念にして居った。然るに月日の經つに從つて次第に息吹き返すもあり一枚取れ二枚剝がれて、遂にはー枚も見られなくなつた。卽ち死灰再燃でそれぞれに價を持ちだしたことを語るのである。
 同時に人の心も大ガラより遠ざかって、漸く痛手を忘れかけていた頃、米国から山下亀三郎、矢田績、永井儀三郎、福澤桃介の連中に宛てて電報が来た。曰くスチール株が30弗の安値で買いは今だとある。発信人は村井其の人で、雀百まで踊りを忘れてはゐない。
時恰も內地は资本の外国逃避問题が喧しかつた顷とて、爲換取組に難あり、何れも出動をよう思いつかなかつた。獨り相場の天才児桃介翁は早速10万円を電送して買方を依褚する所あつた。元来が用心深い翁は当時物情恟然たる内地の狀勢に鑑み、ー部資本を海外に置いて、万一の際に於ける避難用の保身と相場の一石二鳥を狙ったものである。
遥々日本の知友に勧めて来るほどの村井である。小規模ながら本人自身も再出動をして、敗將又々兵を語るに不思議はない。そうして戰果は何うであつたか。彼は昭和7年5月30日附で地主に左の手紙を寄せて居る。
(前略)例の持病の株のイジクリの爲めに又々大きな穴を生じ閉口しております。實に今日の如き相場は誰れ一人も想像する事は出來ませんでした。つまりあんな物にたづさわりたるが、わるいのです幸に今回は店よりは一文も借金をしてゐないのが仕合です。
(中略)只今は世界中何れの國も同じ苦痛をして居るのも、つまり過去數十年に亘り人気自然に増長して、自分等の知恵才能にて世の中は動くものとうぬぼれて居る罰が、今現はれ鐵棒を以てなぐられて居る所だと思ひます。コンナ目に逢うてもまだまだ眼を覚まして眞に悔改むる心なく、國々も個々人も謙遜の態度に帰らずして益々高慢の鼻柱を振り立てて居る故、世界難も亦烈しく来ると存じます。右は人事でなく過去數十年の私自身の心中を顧みると、脊に氷水を流すが如く感じます。
私も出來る事なら近き内に歸朝したいと思ひますが、ドーモ妻が近來弱いので獨り殘して行く事が気の毒で實行を見合わせております云々。

相場の悪繁訓をしみじみ痛感して、悔恨と自責を率直に打ちまけて居るのである。同時に今日の世界難をチョッピリ豫言して『鐵棒でなぐられて居る』と形容したところ骨を剌すものがある。
されど最も傷心に堪えないのは、末尾に記せる如く既に此頃より歸朝を思いながら夫人の病弱に心牽かれて延び延びとなり、遂に昭和10年6月最終の帰朝まで足を揚げえなかつたことである。
斯くして村井はヤットの思いで日本に帰り、幾程もなく最後の病床に横はりながら、尚ほ且つ電報で相場を続けたもので、病癖か執着か眞に底知れぬ謎と云うの外はない。
孔子は小人間居して不善をなすと云ひ、又何もしないよりは博奕でもするが善いとも云つたと傅へられる。流石に博奕の本場たる支那孔子は、博奕を不善の中に入れてゐなかつた。之に依つて相場は古く2500年前の聖人に、知己を持つて居つた譯で、其道の數寄者たる村井も、孔子から裏書されて居ると知つたら、今更ら新に拍車を掛けられた思いをしたであらう。
兎に角村井の相場は徹底したもので、彼は其處に慰安と刺戟と興味を求めて、三昧の境地に浸つたのである。
彼は日記に特別欄を設け、月日と銘柄、株数金額を記し、毎月末に赤字と黒字で損得を決算してある。更に摘要欄に鯛比目魚カレイなど大小各種の魚が描かれて、損益を魚釣りに喩へた畫が出来て居る。一度この秘密の手帳を永井儀三郎に示し、『僕の相場は魚釣りだよ。紐育の店で忙しい商賣の合間に、此手帳を出して魚釣りの樂をする其味は、何んとも云はれぬものがある。気分の轉換にこれほど面白い娯楽はない』と云ふのである。詰り釣り好きは魚を食ふのが目的でなく、釣り其者に興味を感ずる如く、彼の相場はスポーツ気分と魚釣り趣味に無上の慰安と娯楽を感ずるのである。既に楽しんだ後のカスである金錢は幸ひ儲かつて居れば可なり。無くなつて居つても又可なりで金銭其物はタイした問題でない。
今一つ彼の相場観がある。今日の世界は民族戰と云うか、人種戰と云うか、外交に商売に白人の優越感が跋扈跳梁を極めて居る。勢力範囲、關税、バーター制、ブロック別とあらゆる制限の網が張り廻らされて、日本人など手も足も出でないハンデーキャップに苦しん居る。此間に獨り相場だけは絶對平等で白人も黄黒人もなく、人種や國際問題を超越した無條件の戰が出來る。此處でこそ眞の智力膽力の白兵戰が行はれ、金力と識見の肉彈戰が出來る。勝って誇りあり敗れて悔なき男児の戰場は、只この世界だけである。これが村井の相場哲學で慘敗一空の後、セイセイしたと云う彼の心事は、澄み切った蒼空一碧を思わせる所以である。
それにしても森村翁の絶大なる感化力を以てしても、遂に村井の相場と云ふ缺陥を矯めることが出来なかつたとは、返す返すも惜むに餘る次第である。
村井は600万円に達する資産の全部を公益の爲めに投げ出して、新に財団法人を組織することを思ひ立ち、伊勢本一觔を興律に招いて議を練つた上、時の社会局長官大野䖝ー郎や山室軍平、今井五介、内田嘉吉等をその道々の人と、親しく具體案を協議する所あつたが、總ては次回歸朝の上に譲ることとして渡米の途に上つた。
然るに其後の失敗で万事水泡に歸したのは、本人に取って千秋の恨事たるは勿論、延いては將來の社会に多大の善徳を恵與すべかりし機会さへ一場の夢物語に終つてしまつた。
過を見て仁を知る。公明彼が如く、努力彼が如く、精進彼が如くにして、尚ほ且つ相場の誘惑の前には始終手もなく參つてしまふ所に、人問の弱さと褚りなさが今更の如く痛感される。何にしても相場は村井に於ける悪魔の最高峰であつた。
相場は村井に對するモヒ中毒であつた。そうして人間たる村井は遂にこの魔力に勝ひほせないで逝つたのである。