吉田三傑「村井保固傳」を読む 42

村井とシーボルト
村井は知人から掲額用に書を頼まれると大抵断って書かなかった。その理由は、「標語など役に立たない。支那や朝鮮に行くと実にうまい掲額が至る所に見られる。若し標語通りに行ったら支那、朝鮮は世界の強国になっているはずだ。然るに事実反対であるのは看板に偽りあるで、彼らは標語倒れになった。富強を誇る西洋に断然そんなものは無い」と云うのであるが、晩年は人の需めに応じて書を書いて与えた事も屡々ある。
一度帰郷した折、吉田で奥田という家の子供に「信」の一字を書いてやり「これを心に持っておりさえすりゃ、世界中何処でも行かれる。一生喰い外れと云うことはないぞ」と云い添えたのを、子供心に直訳したのか、早速持って帰って「お父さんこれを持って居ったら世界中何処でも行かれるそうな」と語り大笑いになった。
村井の書は能筆と云うほどではないが、一種の邪味を帯びて居る。吉田で能筆の聞こえが高い豊田房吉から長いものを書くと屑が出るから、短く一字かせいぜい三字ぐらいに止めて置きなさい。と冷やかし半分に云われたものである。辭句は聖書から取ったり自分の思い付きを書く方であるが、特に会心のものとして「懈怠は死也」という句をものにした。此の句は森村翁を真似たものか。聖書から引用したか判らぬが、偶然にも面白い事実が後に現れた。
幕府時代に来朝した和蘭シーボルトが之と同じ文句を門人に書いて与えたことがある。彼は日本の風土に親しみ日本婦人と結婚して女の子を設けた。この女子を妻にした門人の二宮敬作は医者で、吉田の隣の大洲藩へ仕えた。この人がシーボルトから与えられた右の文句を、蘭字のまま印籠のような象牙の腰下げに彫刻して持って居ったのが、同人の死後印籠の行衛も知れなかった。同じ吉田出身の飯野逸平は村井門下の高足で、日本陶器会社社長である。この飯野の姉婿に当たる宮崎褜義が、ある時宇和島の道具屋でこの印籠を見出した。立派に蘭文の文句と二宮の二字まで彫刻してあるから、紛れもない眞品である。斯くして村井の愛用した辭句がシーボルトにも愛用されたことが判り、その縁に繋がる女婿の遺物が、村井の乾分たり森村組幹部の一人たる飯野の義兄に買われるなど、標語で繫がる村井とシーボルトの奇縁も一挿話たるを失わない。同時に村井の掲額が筆跡以上に物を云うことになった。
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天佑神助なくば小事も成らず。況んや大業おや。天佑神助は自身の眞心至誠の泉を通じてのみ來るものなり。何事をなすにも眞心を以て熱心に勉むれば神も佑け給ふ。人も助け給ふ。業は創めて成功するなり。

心は芿水の江河を流るる如く沈滯なく、気は晴天に朝日の登るが如く鬱屈なく、體は悠々暢々たるべし。
間志雜慮は皆虚なり。之を拂ふは只一個の眞如心あるのみ。
(村井日記)