伊予吉田の歴史と文化 吉田祭礼の行列絵巻(1)

『先知録』に八幡宮祭礼の行列絵巻は、高月紫明・芝誠明・利根翠塢の描いたものが現存している、とあるが、平成2年発行の『伊予吉田郷土史話集』に著者の芝正一氏は、叶法華津屋の流れをくむ高月紫明が描いた吉田祭礼図絵に関して記述している。

月王高月晴之助ハ叶法華津屋ノ末裔
文筆ニ優レ殊ニ俳諧ヲ能クス
斯道ニ於テ太田音吉氏卜深交アリ
相携へテ吉田町文化ニ貢献スル処多カリシカ
昭和六未年秋病ヲ得テ再ヒ立タス
遺髪ヲ海蔵寺ニ葬ル
月王不遇ニシテ後嗣無ク
開藩以来ノ名家茲ニ廃絶ス
月王ノ家君紫明高月武太郎ハ
詩文ニ長シ彩管ヲ以テ擢ンス
其遺作ニ吉田祭礼図絵一巻アリ
太田氏縁ニヨリ之ヲ秘蔵セシカ
高月家墓所ノ荒廃スルヲ嘆キ
図絵一巻ヲ資ニ換へ
以テ其ノ菩提ヲ弔フコトヲ計ル
佐川重敏氏亦高月家ト宿縁アリ
太田氏ノ芳志ニ賛シ
欣然資ヲ投シテ供養ヲ俱ニセラル
佐川氏ハ予テヨリ
吉田町文化遺産ノ保存ニ志厚ク
其途ニ寄与サレル処多シ
此度紫明筆吉田祭礼図絵ノ表装ヲ改メテ二卷卜シ
永久保存ノ道ヲ講スル為
之ヲ吉田町文化協会ニ託サル
吉田町文化協会ハ
佐川氏ノ志ヲ承ケテ之ヲ保存シ
以テ郷土文化ノ向上ニ資スルコトヲ約セリ
依テ茲ニ其由来ヲ記シテ之ヲ
後世ニ伝フ
昭和四十九甲寅八月佳日
吉田町文化協会長
芝 正一
(昭和四十九年八月吉田祭礼図絵の卷未に記之)
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利根翠塢(とね すいう)は元吉田藩士で大正6年(1917)に、天保6年(1835)の祭礼絵巻(全長9m、幅20cm)を着色し模写を遺した。
絵巻は藩政時代の華やかな祭りの様子が描かれているが、後世に伝えるべき文化遺産と感じその絵を模写し、絵巻物としてこれを遺したのであろう。
吉田藩の発足が明暦3年(1657)、その7年後の寛文4年(1664)に南山八幡神社神幸祭が始まった。「落葉のはきよせ」「先知録」などから想定されるお練りは壮大なもので、「御用練り」は足軽20人が小銃を肩にし、鞆付の弓矢を持つもの20名、鳥毛の長柄を肩にする者の傍に裃姿の小頭などが付く。引馬二匹に口取り、小頭が付添って、その長い行列が威風堂々と進む。その次に御船が続き朱塗りの船に吹抜き旗、弓矢小銃で飾り立て、御船手組の面々は船謡を唄いながら陣屋町を練って往く。
今年で平成最後の祭りとなった「吉田おねり」は、7月の豪雨被害にめげず開催された。何と355年目となったお祭りは此の後も連綿と続くのだろう。
伊予吉田藩3万石の藩祖・伊達宗純が新天地でお祭りを始めたのは、領民との絆を深めるために考えたのか、やがて町人町の者も参加する山車、牛鬼、鹿の子などで官民一体となる一大イベントに仕上がった。
一句
粛々と徒歩(かち)や御船の秋おねり