吉田三傑「村井保固傳」を読む 46

最後の病氣と終焉 (1)

昭和6年6月第89回の横斷で、渡米した村井は珍らしく長逗留をして容易に足を挙げなかった。否な挙げるに忍びないものがあつた。
彼の歸朝を促す用事は山積して居るにも拘わらず“I must go”と繰返し云ひ続けたにも拘らず、遂に丸4年と云う最近の彼には殆んど例のない長滯米であつた。
虫の知らせと云ふか、是が50年苦樂を共にして、偕老を契つた村井夫人との永別とならうとは、後にこそ知られたれ、神ならぬ当人同士其の頃に知る由もない。然も尚後ろ髪引かれる思いで、耐え難い別離を惜んだ夫妻の衷情は切々綿々、涙なしに綴られぬ哀別譜である。
昭和8年7月25日附で森岡天涯に送った手紙に、
(前略)小生も今度は出発以來既に2ヶ年餘に相成り、是非一度歸朝したいのは山々ですが、何分にも妻の健康が良くない。只50年に近く苦楽を共にしたる小生を、杖とも柱とも便りに日々を送って居るのを見ては、ドウする事も出来ず、何事も神に任して日々妻を慰めつつ出来る限りを努めて居ります。
世界の只今の難儀は個人々々も、亦國と國とも只取込主義のみにして、少しも與へる生活をせぬのが、眞の惱みであると思ひます。今少し暮らし心地の善い世の中を欲するならば、世人の心が一変して與へる心にならざれば駄目です。
一咋年櫻花の時節に、本間大人と君の御宅に宿りたる時の愉快は、とても忘るる事とが出來ませんよ。
東海の漁夫、又の名與市兵衞

然も第90回の横斷、卽ち村井自身に取っても、米大陛に、永の別れを告げた意義深い最後の歸朝が、昭和10年6月19日である。
取敢へず柬京に出で興津に赴き、後伊柬の別莊に暑を避けて居る際、健康に異狀を感じたが別に気にかけず、1,2週間も經てば良くなるだろうと、静養を続けて居つた。されど餘り捗々しく快方にならぬため、周囲の人々が気をもみ始めた。其處で法華津が柬京から駆附け泊り掛けで、切に入院治療を勧めた結果、本人も漸く其の気になり、翌8月20日法華津と一緒に歸京するや、停車場から直様慶應病院に入院した。
病気は攝護腺炎で、別に苦痛に堪えられぬと云うのではない。森村組關係を始め故舊や友人の見舞に來る人々相手に、常の如く談笑して病室は賑かだから徙然を訴へるやうなこともない。
救世軍山室軍平は2,3日毎に訪問して豊かな心霊上の慰安を與へてくれる。森材家からは名幅の掛け物を持つて來て、壁にかけ折々は取換へて鑑賞に資するなど、何から何まで不自由知らず、寧ろ幸福な入院治療である。唯病室は狭し、見舞い人は多いので本人も窮屈であらうと、森村男夫人が廣い特別室に移ることを勸めるが、容易に承知しない。やつとのことで同意したから早速引越しを濟ませて安心したのは善いが、一夜過ぎて又以前の部屋に歸つて來た。聞けば特別室は日当たりが善くないからとある。仕方がないので漸く隣りに空き室の出來たのを幸ひ、借りそへて控へ室に使うことにした。そうして別に寝臺を作り、上半身を斜めにして見舞客と顔見合わせながら、話の出来るやうにした。
国許からは吉田の有志代表がわざわざ見舞いに上京して、親しく看護したいと切なる希望を申し出るもあり、かたがた愛する故觶の消息さへ、一々手に取るやうに聞かれる。村井が此等の人々に對し、病床談をした中に古谷頼綱と1時間に餘つて閑談した左の記録がある。

私は六月に帰朝して七月に発病し、八月に二三週間と思つて入院して今に斯うして居る、折角諸君が來てくれたから、自分の經驗談をして見やう。
人間は何が善いか惡いか、誰も繁はることで皆知つて居るが、之を實行するのはなかなか困難である。医者は保健衞生のことを充分知つてゐながら、實行しないから医者に長命は少ない。併し割合いに容易くこの困難に打勝つ方法があるから話して見やう。私は煙草が好きで日にシガーを十二本も喫つてゐた。或時好地由太觔と云ふ牧師と同席してゐた時、私は氏にキリストで酒を喧しく云うのは判つて居るが、煙草まで嚴しく云ふのは解し難いと云つたら、氏はニコチンの毒になる話をされた。別に耳新らしいことでもないが、兎に角話を聞いて見る居る中に煙草の味がまづくなつた。そこで半分喫みかけたシガーを捨てた。こんな有害高価なものを止めて、其費用を傳道の爲めに寄附する旨を申出た。併し、自分は元來意志が弱いから實行が出來ぬかも知れぬと思って、宴会の時などは二三本ポケットに忍ばせて行つたが、別に喫みたくもなかつた。陸上では辛抱が出來ても海上の時には手持無沙汰だから、必要があるかも知れぬと二箱ほど持つて行つたが、之も結局使用せず上陸の際人に與へた。其後三十餘年全く喫煙しない。人は之を見て私の意志の強いのに感心してくれたけれど、實は是は私の意志の力ではない。上より來る霊の力であつた。自分のみに頼ってはあの偉い福澤先生でも禁酒を思ひ立たれて實行が出來なかつたのみならず、却つて煙草さへ始めるに至つた。
こんな風で人間は事に当たって自己の力の不足を嘆ずる場合に、他力に頼り霊の力に依頼してやれば、案外容易く出来るものである。次に云ひたいのは努力である。精進である。人の心は井のやうなものでその水を汲まなければ、すぐにボーフラや金魚虫がわいて、使用に堪えなくなる。之に反して水を汲めば汲むほど、下から善い水が湧いて出る。學生にしても毎日一心不亂に己が心の井水を汲まねばならない。書物を読むにも心に汗をかくほどの気持で讀むことが大切である。父兄や繁師も學生がさうするやうに指導して貰いたい。世の中で最も始末に惡い學生は、自分はダメだと思う者である。そして父兄や繁師が学生を落膽させるのも亦最も拙劣なやり方である。人間の力がどれだけあるか、人の心の内にどんな偉いものが潜んで居るかは、心の井を汲んで汲み出して見る迄は、当人にも周囲のものにも判る筈がない。この道理は實社会へ出て後も同じであつて、人生に活動しやうとする者は、與へられた仕事に對して一心に努力して、『多く勞して少く求める』積りでなくてはならぬ。(中略)學資があつて勉強するのも結講だが、一方早くから人に使はれることも大変よい経験になるものである。或る時森村さんと成瀬仁藏さんと私が出会った時、私が十四歳から奉公したと云つたら、他の二人は十三の時から奉公したと云はれた。人間はまづ人に使はれて見なければ、使われる者の気持が分らないから、本当に人を使うことも出來ない。大學を出て初めから官廳などの比較的上の方に就職した人の中には、部下の統御の下手な人のあるのは、皆この爲めであらう。何れにしても人間は苦労をする必要があり、人が經驗した苦労はいつ迄も、其人を守り此人の人格に光りを添へ、其人の成.功を保證するものである。最後に諸君は何処に働いて居つても、故觶を忘れることはいけない。人は二十歳位までは故觶に追う所が非常に多い。それで私は米國から歸るといつも吉田へ歸ることにして居る。近來とかく有爲の人が都会に集中して、故觶を顧みない傾向のあるのは嘆かわしいことである。薩長でも昔は立派な人が地方にゐて、後進の繁育に努めた。例へば鹿児島の鍛冶屋町のやうな小さい一町内から、西郷、大久保、東郷と云う様な、日本を背負って立つ人傑を輩出した。私の觶土に於ても有爲の人物は多く故觶を離れて居るが、故觶の苗床はよく注意して水を注ぎ肥料を與へて、立派に仕立て、行かねばならない。此の意味で私は吉田に幼稚園を設けたのである。此精神を以て苗床をもり立てて行けば將來どんな偉いものが出來るか、測り知る可らざることである。吉田の地には我々の永く龜鑑とすべき偉人あり、それは安藤様である。此の方はあの一揆の鎭撫には、必ず行かねばならない事情でなかつたにも拘らず、進んで八幡河原へ向かい、責を一身に追うて切腹された。之によって一揆はその高潔なる犠牲的精神に感激して理屈なしに鎭まつた。我等は此祟高な大精神を発揮して行かねばならない。
觶土を愛する心は之を拡大すれば愛国心である。私は米國に行つて愈々愛国心が強くなつた気がする。私が八十歳の時におのづと心に浮かんだ歌に、
  神に問ひ人に学びて今日も又
   昨日にまさる人となりたし
私は病床にある今も日々己を新にすることを樂しみにして居る云々。
正に一席の法話として明珠の光とも銀鈴の響きとも受取られる。
これより先き、大正十一年に五十萬円を割いて財団法人村井保固実業奨励会を設立した村井は今度の病中、此の内に二十万円を以て財団法人村井保固愛郷会を設け、自ら会長となつた。村井の沒後は法華津孝治が代つて会長になつた。


太平洋横断89回目の村井最後の渡米
昭和6年6月11日 日枝丸にて)