伊予吉田の歴史と文化 八幡祭禮

(落葉のはきよせ)

吉田秋祭りは、伊予吉田藩祖の伊達宗純が、藩の総鎮守である南山八幡神社神幸祭として寛文四年(1644年)に始めた。
大正10年に甲斐順宜(かいのぶより)が発行した「落葉のはきよせ」の中編・治政第四項「典禮と秩序」に八幡祭禮の事が記されている。
……祭は各自には忌祭を厚くし、郷党の氏神祭をば共に盛行せり、即ち八幡祭禮には伊達家より物頭を代参せしめ、鹵簿には御用練りなるものを指出さる。
先ず先頭に足軽二十人、緋羅紗包の小銃を肩にし、次に仝人数鞆付の弓矢を肩にし、その次は同じく鳥毛の長柄を肩にし、毎組小頭二人宛、上下着用高股立にて前後に付添い、各々三間許距離を隔て粛々として進む。その儀容威厳侵べからず、萬一にもその間を通過する者あらんか、厳しく之を叱責す。その次は引馬二匹、金覆輪の鞍に燃黄羅紗の覆いをなし、燃ゆる許りの緋房の靳□をかけ二人宛の口取と小頭付添たり。又御船は朱塗にて、紫縮緬に白の染抜の御紋を見はし、上には吹抜き旗、弓矢小銃(緋羅紗袋入)を飾り立て船謡を奏しつつ進む、其妙音美聲謡曲に優れり。今や廃滅に属す惜しむに余りあり、其次に塔堂車あり大工町より出し抽籤外に先進せしが今之を廃せり。爰に余が昔年請われしままにものせし車謡の中を紀念の爲に左に記す。
 神功皇后  千早やふる神もめてけんいさをしはとほき浪路をへだてたるそのこと國の高麗くだら任那の人もおしなへて我が日の本になびきしは實に大君のみいつなりけり
 武内宿禰  三百年の歳を重ね健やかに心もまめに女の神を助けましつつ外つ國のみいつ輝かし八幡の神をかしつきて大み光をそへ奉るよに比ひなき功しは萬よまでもたたえまつれり
 八幡太郎  ふく風をなこその關とうたひけむ昔床しき梓弓八幡の君のいしをしは櫻木に尚とどめつつ幾世の春に香ふなるらん
 楠 正成  御代の名を建武といひしその昔我が大君のみこころをやすめたまひしいさをしは千代も変わらずもおのふの鑑とすめるみなと川水
 關 羽   桃園に誓を立てしもろこしの三たりの人の其の名をば今もかはらず美しき花にも優る思いして三千とせならで幾千代も春かけてとぞ匂ふなるらん

其の車と車との間に練子なるものあり、男兒は頼光山入、金時の鬼征伐、七福神等にて女兒は花賣り、鹽汲み等何れも豪商より出し、男女両人を付添せ、女人は日傘をさしかけ、男子は社裃を着け將机を携ふ、惣して其の行列の整頓せる、順序の厳格なる事又其類を見ず。従って神輿の渡御に至っても特に神々しきを感ぜしなり。今や僅かに形色を遺在するのみ、風格の美替豊忍ばざる可けむや。……

(吉田藩昔話)

「落葉のはきよせ」から16年後の昭和12年に「吉田藩昔話」が戸田友士の執筆で発行された。その中で(八幡神社と其大祭)と題し祭の事が描かれている。両書の重複を避け纏めてみた。
……鹽汲、花賣、鰹賣その他種々の催物を出し、町車の中間に行列をなし其服装の美々しきに人目を眩惑せしめた、現今にても四ッ太鼓、鹿の子、町方から出す屋臺車の人形飾幕の立派にして美麗なることは往昔より四國第一との定評であり又一小藩としての自慢でもあつた、どれだけ多額の金をかけて居り力瘤を入れたかが想見せられる事である、殊に珍しいのは牛鬼と稱し若者二十餘名を容るる大なる獸體を造つて全體を棕櫚毛で敝ひ、頭は獅子頭の首を長くして内から之れを操り、尾には一間以上の木劍を振り立て、御殿前の廣場、膻堀前、櫻丁一帶の廣場,濟通り住吉古神社から御旅所の三四丁の間に於て群衆の中に暴れ狂ふ動作は實に勇壯を極め、當日第一の呼び者として歡迎せられるのは昔も今も同じである、別に寶多と稱し単獨行動にて若者が牛鬼と同様の獅子頭を被り夜半より終日、町内を駆け廻りて祭の興を添へる事一段である、其數に至つては七八百以上に及ぶのである、此牛鬼と寶多とは他に其の比を見ざる所で吉田大祭の一大名物として知られてゐる、(四月十四日の安藤神社の大祭にも牛鬼の暴れ狂う事は同様である)之れがため人出は夥しく川原は元よりその他の廣場に大仕掛の軽業、手品、見せ物等多く其邊一帯に小屋掛澤山にて露店に至つては枚擧する事は出來ない、斯くて人車馬の通行は殆んど不能の有様である、翌日も亦前日同様で此二日間の人出は数万に及ぶ、往昔は各所に物見場があつて藩主並に御一門の方々が觀覧せられて居つた。……

一句 桜橋暴れ牛鬼幟旗

(吉田三間商工会・吉田秋祭りGUIDE BOOKより)