吉田三傑「村井保固傳」を読む 39

宗教発心

相場を除いて、村井の性行はあらゆる面で森村翁の再版、縮図であることは、模倣と云うよりも寧ろ生き写しの感があった。
青壮年時代には実業一点張りで邁進、次いで晩年信仰の道に入り宗教に精進し古聖者の足跡を辿った。
先ず、本家たる森村翁の宗教入りについて記す。
森村翁は胎内にあった時から宗教を持って居った。實父5代森村市左衛門は手堅い商人として聞こえていた。土佐藩に出入りしている際も、若い侍には中以下の品物を出して見せる。たまたま少し上物をと云われると、それはお若い貴下方の持つものではありませんと跳ね付けたものである。こういう気骨の外に、傍ら文芸興味のほうでもアカの他人ではなかった。浮世絵で有名な廣重が森村の近所に住んでいた。廣重が旅に出て10日も1月も帰ってこない、留守の家内は朝夕の暮らしに困ると5代目がいつも面倒を見た。
6代目男爵は浮世絵に感化され、少年の頃から父に小遣銭を貰って浮世絵を買うことが一つの楽しみでそれが今に残っている。
この5代目は深く仏教に帰依し、特に真言宗である所から弘法大師を信仰していた。年を取ってから自分は大師の御命日に死にたいものだと口癖のように云って居った。予言通り1月21日に最後の息を引取った。更に母松女は観世音を信じ毎夜普門品を誦えて寝に就く信心家だった。こういう両親の感化もあり仏教に帰依して居った。其の後運照律師を知り度々法話に参し熱心な信者となり師の為に土地金圓を寄付して後援した。然るに師の死後門下の土地名義書換で面白からぬ風聞を聞き、爾来その方面との交渉を絶った。
翁はその後キリスト教の話を聞いて感ずる所あり、潜心研究を続けて遂に信者となり、松村介石と親しくして道の会に尽くした。
翁の言に「仏教は教理高遠であるだけ、日常処世の用には縁が遠い。丁度正宗は名刀であるが終始抜いて使う訳には行かぬようなものだ。其処に行くとキリスト教は世に処し事を行うに重宝で實用上始終の便利がある」という。
元来村井はキリスト教國たるアメリカに住み、アメリカ人牧師の娘を妻とし多くのアメリカ人と接触して居るのだから、その感化でキリスト教に入るのが自然の流れであった。
然るに実際は多年キリスト教には不感性と云うか、免疫されたと云うか、殆ど風馬牛啻ならぬ他人行儀で通して来たものである。それが今度は不思議に、森村側から吹いてきたチョットしたキツカケに動かされ、遂に開城することになった。

更生の誓

明治40年夏、村井が帰朝の際、テキサス州を通過した時、森村翁の三男三樹雄から「神一合一」という小冊子を贈られ汽車中に読んで大いに感じ、爾来熱心にキリスト教研究の志を起こした。日本に着いて間もない9月24日、第53回目の誕生日に左の感想を日記に書き、精神的更生の第一歩を踏み出した。
 明治40年9月24日は余が第53回目の誕生日なり。此日を以て新に余が一身の組織を変更せり、此再生の我れの大目的は何ぞや。一心不亂に我が日米間の商業を拡張して益々雄大なる会社となし、基礎を堅固なるものとなし、商業世界の手本となり、日米人に尊敬せられる迄に致さん目的なり。眞の日本の勢力を米国は勿論、世界に示さんことが目的なり、急がず焦らず年々豊富なる資本を積み上げ、製造と商業の實權を握らんことが目的なり。右の目的を達せん爲めには總ての困難辛苦を凌ぎ、自身に薄くして有力なる人才を集め、日月と共に進歩拡張することを期す。
我が生命のあらん限り、我が気力のあらん限り、我が体力のあらん限り、我が精力のあらん限り、一念専心に此の道に向かって全力を傾注せんと決意す。此の眞心我が今年の生命なり、願はくは尊愛信委する神と人との助けを得んことを。
此點從來は一個獨立なりしが、今日より眞神と合名会社を組織す。神の部分は六にして余の部分は四の割合なり。
仍て今日以後は見聞、思考、談話、讀書、快樂、運動、交際、商業、取引一切の決斷、家庭の交り慈善実行、人の爲め世の爲め余が事業の爲めの奮戦競争一切につき、自身一己の決斷を許さず。先づパートナーに相談して其同意を得た上ならでは実行を許さず。神の相談役として左の人物を擧ぐ。
エスキリスト   使徒ポーロ
釋迦如來      孔 夫 子
リンコーン     福澤諭吉
更に別の項に、
余は神の御旨を爲さん爲めに金錢を儲け、且つ之を貯畜するなり。依つて余の金錢は余自身のものに非ずして、全く神に属するものなり。余は只これを管理して神に對し精細なる計算報告をなす責任あるものなり云々。
更生のー念烈々として燃ゆるままを吐露し傾倒して、神人合名の大義を堅く自ら誓ふたもので、今後の村井が又昨日の村井でないことを語つて居る。
更にー層の不思議は、村井の富に關するこの考へ方が、偶然にも回繁の繁祖マホメットと符節を合はせたやうに共通して居ることである。即ちマホメットは、『その所藏に係る錢財を灰に還す義務を果たし終るまで、自分はー時の管財人である』と堅く信じて居つた。
明治41年1月2日の年頭感に左のー節がある。
本年の1月1日よりは心気を新にして決心を強くし、偏へに神の力に依り總ての悪魔を近づけざるやう、遠く彼を追い拂ひ、眞に彼から離れて自由自在に神と人類の爲めに、心身を捧げ奉公することを誓約するなり。
物を逐ふ時は眞如の心に思慮の雲起りて眞明眞誠の活動なし。恰も眼を閉じて人を逐ふが如し、其人を獲ずして却つて河谷に落入ること疑なし。
物を逐ふは人慾なり。財、色、権、勝、飮食等は最も人の獲んと欲して逐ふ所のものなり。斯るものは決して逐うて獲得するものに非ず。只朝夕勉めて彼等の來りて我身に附かんとする道を廣め、道を排除し其の道を造りて怠らざれば、自然々々に先方より近より来りて、遂には我身に附くのー方あるのみ。これ等は恰も老練なる獵人が朝夕鹿猪の來る道を探して、その來るを待つて居る故多くの獲物あると同じ。素人は鐡砲を以て終日山を巡り、たまたま鹿を見れば之を逐ふ故、彼は早く逃走してしまふなり。魚を取る漁夫又同じ云々。
讀み來つて誰かこれが多忙な実業家の日記と思うものがあらうか、.彼は一心不亂に更生の道を攀ぢ發つて居るのである。
斯くて時計の針の如く、アプト式の汽車の如く、刻ー刻、歩一歩、堅く踏みしめて前進はするが、斷じて後退せぬ村井の精神生活に時節が到來した。