吉田三傑「村井保固傳」を読む 31

天成の調和剤
色眼鏡云々で森村と大倉の間の食い違いを、村井の執り成しで治めたが、明治40年又も両雄の両立し難い形勢となった。村井はよくよく慎重に考慮されたいと切なる希望を言い残して帰米の途に上がった。果たして、翌41年森村から至急帰朝を促す電報が来た。
森村もこの時は流石に深憂にくれた面持ちで、大倉と別れねばならぬ状態になった次第を語り対策の相談であった。
名古屋に來て見ると、暴風雨の発生地だけに事態は一層險悪を極め、風聲鶴唳、寄ると障ると偶語百出である。大倉老夫人は早朝村井を訪れて『昨夜深更主人は倅と百木と三人で、此上は分離の外に策がないとの相談でありました。されど私としては高輪の森村さんに非常なお世話になつて居ります。どうしてもこれは忍ぶに忍ばれません。どうかそんなことにならないやう、何んとか貴下のお骨折で円滿に纏めて頂くよう願ひます。』と熱情こめて云はれる。『無論、此方も其の積もりで居ります。』と堅く受合うて老夫人を帰らせた。幸ひに此時も村井の幹旋が功を奏して無事に納まつた。
斯くして義兄弟の破綻を取りなした村井は、實兄弟の間に周旋したエピソードを持っている。
豊さんが多年の辛苦で健康を害した為、森村は慰安の一助に霊南坂に新邸を構えた後の事、村井が新に米國から歸つて來た。
スルト先代は『豊サンいよいよ不日出立ですね』云われる。豊サンは『いやがる犬の首へ繩をつけて無理に引つぱる姿だね』と返す。此方は又『今からそんなことを云って』と双方の興奮が激論となり、これまた兄弟別れと破裂して、豊サンは憤然席を蹴つて帰った。村井は後刻高輪邸に赴き、『今夜豊サンを連れて來ますからどうか仲直りをして下さい』『アンナに怒つたが来るか知らん』。『ィャ大丈夫、キット連れて來ます』。と受合うて霊南坂に行つて見ると、夫人も心配を面に現して、『只今頭が痛いと云つて寝ております』『宜しい判つて居りますから逢わせて下さい』と、奥に通り頭から布団を被つて居る所を、ィキナリめくつて『ォィ起きんか、起きろ起きろァンナ事とを云ってはいかん。自分一人の仕事と思うから気儘が出る。お互ひ国家の仕事を担当して居ると思うたらどんな辛抱も出来ぬことはない。国家の大事に小さい個人の感情などを入れると云う、そんな狹い料簡でどうするものか。サァこれから仲直りに行こう』と促して共に高輪邸に出掛け、散々御馳走になり歡を盡して帰った。
此後幾程もなく森村組創業の元勲であった豊サンが明治32年7月30日まだ46歳の若さで病の爲めに斃れたのは、貿易界黎明期の殉職者とも云ふべく永く惜まれたものである。
以上二つのいざこざに関する話は、昭和10年9月村井が最後の病床に横はりつつ森村組の需めに應じて手記させた『思ひ出しの記』から抄録したものである。
彼は初めに『熟誠之集合、活業之固ヲ爲ス』と題辭を記し、更に『トヵク自分の手柄話をするやうなことになりまして心持がよくありませんが云々』と先づ斷りて、兎も角も後の參考資料に書き殘したものである。從つて別段爲めにする所あるでもなく、嫌虛な心境で淡々と述べた村井其人の一面観である。されど一つの富士山でも甲斐から見ると駿河から見るとは同じでないやうに、他の視野から違つた角度で見れば、又色々変わった観察があるであらう。それ等の総てを総合し対照して始めて全貌の完璧が期待される。そうして之は他日大森村組の沿革史編纂に残された一課題である。