吉田三傑「村井保固傳」を読む 33

緊縮整理
村井は大正バブルに緊縮整理の大ナタを振るった。
大正4年12,13号窯と増やし、更に増設で6年には28号窯を造るに至った。
東京に森村商事会社が設立され、八方に手を拡げ鉄、洋紙、マッチなど大量の商品を扱い相当の利益を揚げた。三井、三菱に追いつけと青年社員の鼻息は天を突くばかり。
この狂熱沸騰に一驚を呈したのは紐育の村井である。此のまま放任しては危険と大正8年5月帰朝した。
東京に着いて帳簿を調べると銀行の借入金は1千万円に上っていた。これは赤信号であると、整理の為70万円の損失を覚悟し、悠々緊縮の英断を申し出た。激高したのが青年社員である。(さしもの親爺も寄る年波に焼きが回った)と反抗の気勢を揚げる。村井はこの際、暴虎馮河の勇は何としても制止しなければならぬと瞑目沈吟の末、
    余所の畑に鍬打込んで 思わぬ苦労の種をまく
と一句を残して騒然たる物情に冷水三斗の鎮静剤を投じたまま重い足で名古屋に赴いた。
折も折、魔法瓶工場設立の用で、村井の後を追うて帰朝したのが猪武者の手塚である。百万の味方を得た思いの青年社員が手塚を迎えに横浜へ来た。話を聞いた手塚は「云うには及ぶ、今の機会に整理後退とは村井君の錯覚だ」と賛成し早速名古屋に駆け付けた。
その時、村井は魔法瓶の特約を契約した米人ウォーカーと晩餐を共にしていた。そこへ手塚が入り「君に大事な話がある」語気荒く血相を変えて云う。「マア一緒に食事でもしよう」と騒がず無理に食卓に着かせた。
暫く四方山話をして何気ない風で村井はウォーカーに向かい「一体商売のやり方はいろいろあるが、八方に手を広げて間口を広くするのと、奥行き深く専心一業に没頭するのと結局どちらが善いのだろう」と軽く鎌をかけた。何にも知らない客のウォーカーは「無論商売は一業専心に限る。私は魔法瓶の一手製造と販売で世界を制覇するように改良を重ね、世界を旅して寝食を忘れ研究に没頭しているが中々理想通りに行かぬ。八方に手を出しては到底本当の成功というものは一つもない」と話している間に、手塚は何時の間にか席を外していた。30分経っても戻って来ない。
「君、何所へ行っていたのだ」「便所へ」手塚はウォーカーの言葉の中に考えさせられるものがあったと見え、沈思黙考のため中座していた。
手塚は前と違った態度で「僕は彼処で考えてみたんだが、モウ話すことは止さう。とうとう君に負けたやうだ」と告白してカラカラと大笑いした。
果せるかな、翌大正9年3月突如として襲い来た財界の暴風雨に泡沫会社が算を乱して倒壊し、好況の波に乗って手を広げ過ぎた向きは始末に窮して大痛手を被った。
此の時の村井が森村さんへ最後の御奉公と、踏ん張った勇断で狂瀾を既倒に返し、大森村組を盤石の安きに置いた勲積は、所謂大事に臨み大節に会うて迷わなんだ賜として、事情を知る者の嘆稱於かざる所である。
当時の村井の日記には、
「人の失策の多くは我事業の区域を種々にして、不慣れの事に指を染めるより生ずなり」
「人は忘れても多年の経験なき道に歩み込み深入りして手傷を負うなよ」
「他人の畑の果物に涎を流すよりは自分の畑の草を取れ、自分の田畑を益々広く開墾せよ」と記されている。
未曽有の緊縮と云う大鉈を揮うて一段落を告げると、早くも大正8年8月村井は涼しい気持ちで夏の太平洋を悠々帰米の途に就いた。
これと前後して村井の見通しが的中した例がある。所有する横浜生糸会社の株を売り払って一挙50万円の現金を手にした。同社は村井と兄弟同様の関係の親友新井領一郎の経営に係わるもので、無論上々の景気を謳われて居った頃である。然るに村井は見る所があったものか、突然売却の英断に出た。当の新井は驚愕し翻意を促したが村井は耳を傾けなかった。然るにその後まもなく突風襲来で同会社は悲惨な目に遭った。
測らざりきこの時の帰米が過去40年間、父とも兄とも主人とも崇めて居った森村市左衛門男と村井の永別になった。
村井は米大陸横断の汽車中で男爵危篤の無電に接し、続いて更に永眠の訃報を手にしたときは、涼秋9月粛然として云い知れぬ感慨裡に昇天の霊を心に見送った。
実に大正8年9月11日、男爵森村市左衛門は幽門狭窄で不起の客となり、天爵人爵を兼ね備えた81歳の波瀾多き生涯に終止符を印されたのである。
越えて大正9年10月再び故国の土を踏んだ村井は、東京に入ると先ず青山なる故森村翁の墓前に跪いて、熱い涙を手向けるのであった。
思えば故人と自分の間は、今更説明を要しない。説明するには言葉がない筆がない。天長地久、ただ両心相知るばかりである。
村井の一生は福澤先生と森村翁に追う所の如何に大なるやが知られる。されば彼が最後の病床で書き綴つた回顧録にも、
「私は仕合せ者でございます。東京へ出てすぐに福澤先生に接し、それからすぐ森村さんに使って頂くことになりまして、まごつきの期間がなく大人物の指導を受けて力一杯働く事が出来ましたのは一生の幸福と思うて居ります」と述べて居る。