吉田三傑「村井保固傳」を読む 34

組織変更と森村男の英断
森村翁の長逝で創業の巨星地に落ちたる観あり、大倉老77歳を重ねて現役の重寄に堪えない。残るは孤影悄然たる村井一人である。大正9年10月森村組の組織を変更することになった。31日男爵宅にて故翁の追悼会を催し、続いて男爵より森村組の各種事業を業務別に独立さすことになり、森村組は是を総括する投資会社とした。次に村井は延々と森村組創立時の話から、会社の愛国精神など滔々と訓示を述べ、森村組の更なる発展をお願いしたいという趣旨の挨拶をした。
森村市左衛門と豊さんが設立した森村銀行は、いろいろなリスクを考え男爵は三菱に併合を願い銀行経営から手を引いた。
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趣味と性癖の色々伝記には公に奉ずる村井に役目は完了したとして、是よりは村井の『私』を語ることにする、とある。
酒の上の失敗孔子は「唯酒無量、不及亂」とあり、酒量は相当なものだったが流石に酒癖はなかったそうである。然るに村井は、兎に角酒量に於いては孔子に負けない豪の者だったが、酒癖は相当に乱れたそうだ。
東京では酩酊の末、街頭に前後不覚を巡査に見つかり保護された。紐育では酔後馬車に乗って、窓のガラスを足蹴りにして破り、両足を左右の窓から外に突き出して、道行く人を驚かせ帰宅した。或る時は豊さんと同車で帰る際、豊さんの胸部にしたたか反吐を吐いて洋服を一面に汚した。翌日豊さんの前で叩頭百拝してお侘びを云った。すると豊さんは予想に反し「イヤ何でもなかった。併し服の匂いを消すために香水を一瓶よこし玉へ」と軽妙に受け流され一層慚愧の念に堪えなかった。
宴会の席上、部下が禁酒していると聞きその前に行き、禁酒とは殊勝である、せめて酒の匂いでも嗅がせて進ぜようとからかって得意を催した。後で夫人からその無礼を咎め散々戒告されたには閉口したと後日白状した。尤も村井自身も禁酒を思い立ちながら、その都度失敗に終わり遂に最後まで禁酒には成功しなかった。
大正11年4月5日付桑港から伊勢本一郎に宛てた手紙に「小生も船中にてつくづく考えるにどうも今日までの如く酒など飲んで不真面目のことでは、駄目と覚醒して断然と止めましたお喜び被下度候」と立派に通信はしたものの其中又自分で解禁したと見へ、
    我が禁酒破れごろもとなりにけり それさして飲めついで飲め
    幾たびか思ひ定めて変わるらん 頼みがたきは我が心かな
の二首が後から送られた。併し幸いに賢婦人の監視と、自分にも年と共に暴酒の害を反省して、次第に改善したものである。
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紐育の公園などで悪童連に「チャイナメン」と云われるのが、かねがね癪にさわって居る折柄。一杯機嫌で往来を歩いていると「シャインシャイン」と小僧が云って居る。又しても「チャイナメン」かと聞き違え「くそ馬鹿にしてやがる」といきなり一挙喰らわせると、小僧が泣き出した。気の毒になりよく聞いてみると先方は「シャイン」と云って居る靴磨きと判り。平謝りに詫びて引退ったとは村井の失敗談。