1927年『欧米独断』(最終回) あれやこれや

8月18日朝四時ワルソーを発しモスコー着
  〇盆過ぎて夜寒朝寒覚えけり 
   モスコーの狭き都に人おほし折重なりて住みやするらん
   死顔の活けるが如き冷忍の墓詣でする人の幾町
20日夜モスコー発21日夕
   村雪の残る如くにあつき日の入れば草野を霧の這ひぬる
22日朝鳥拉爾越にかかる
   名に高きウラルの山はなだらにて麦畑とこそなりもはてしか
23日
   西比利亜の野を耕さば筯人のたつきばかりはつきしとぞ思ふ
24日モスコー標準時午前一時日出ノウラシビリスク着
   白露の霜をあざむくこのあしたをちの森より朝日きらめく 
26日
   バイカルをめぐる峯には雪深く夜寒朝寒む西比利亜の原
27日知多カリムスカ
   油絵か錦か何か目もあやに鮮かなりや西比利亜花野
28日満州里着十二時間汽車待つ
29日 
   女郎花の黄金の床を訪ふ人のありとも見えず黒龍ヶ原
30日 四平街附近
  〇黛赭色の高粱畑や秋の風
31日
  〇朝鮮の南瓜ころがる藁屋かな
   朝鮮の山も青みてはたとせのいさをしを知るしるしとも見ゆ
 夜、釜山着和田知事船まで来訪せらる翌一日朝下ノ関に著きたる心地を後日かきて贈りける
   外国をめぐりてかえる船の舳にめもあたらしき下ノ関山

 歐米獨斷 終

 昭和3年2月20日発行
 著作兼発行者 愛媛県北宇和郡吉田町   清家吉次郎

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 『無逸清家吉次郎伝』の吉田町長時代の章に(欧米漫遊と其の快著「欧米独断」)の題で、このように記されている。
…「歐米獨斷」を開いて、その冒頭に於けるこの感想を讀む時、「これあ丸」甲板上に織月を仰ぎつつある芿家氏の姿が髣髴として浮んで來るやうに思はれる。「歐米獨斷」は斯の如き感慨の所有者の記錄である。単なる旅行記の類ではない。(中略)
 八月二十日夜、モスコーを發してニ十八日に滿洲里に到著した。この間は多少の歌句を存する外、格別の観察らしいものは無い。夫人重病の報がその心を鬱結せしめたのであらう。下ノ關に著いたのは九月一日であつた。
 芿家氏は卷煙草が嫌で、卷煙亡国論をさへ唱へてゐた。この歐米旅行に終始一貫して、印傳の煙草入になた豆煙管を用ゐ、外人を煙に卷いたといふことは、今でも氏を偲ぶ語り草の一になつてゐる。…

(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)