『無逸清家吉次郎伝』終焉編 發病から逝去まで

 芿家氏の發病は昭和八年九月末顷からであったらしい。當時左鎖骨上窩部の淋巴腺腫脹があり、胃の工合も惡いといふことだったので、診察した吉田病院長伊東一生氏は直に胃癌の轉移であらうと考へた。由來胃癌にして銷骨上窩部に淋巴腺轉移を生ずる時は、これに對する根治手術は不可能なものである。かう診斷した伊東氏も、その發表の時機に迷はざるを得なかった。
帝阈議會の爲、上京することになつたので、この機會に大學の診察を乞ふべく、十二月二十日を以て出發した。柬京帝大物療內科の診察を受けると、病症は疑ふべくもない胃癌である。加瀬傅士は更に駿河台病院長近藤博士の診察を乞うたところ、近藤博士は手術を施さうと云ふ。芿家氏は胃癌といふことは知らなかつたが、やはりその氣になつたものらしい。二十六日午後入院.手術は翌二十七日ときまった。
手術に際して伊東一生氏はわざわざ上京した。手術は午後三時過開始されたが、胃幽門部の癌なので、種々の理由から切除することは不可能となり、胃腸吻合術を施して四時に終了した。全身麻醉のため衰弱は顿に加はったけれども、經過は普通であった。
 昭和八年は病院で暮れ、正月も埗々しからぬうちに過ぎた。十日を過ぎてからは次第に元氣よくなつたやうであつたが、二月に入ると共に又衰弱が加はるやうになった。看護の夫人を顧みて、「愈々全治せぬと見ねばならぬが、元氣を出して一應國へ歸って死支度をするから、必ず力を落すなよ」と云つたこともあつた。
病院には三土鐵相をはじめ、仲田傅之、一戶知事、望月圭介、牧田子爵といふやうな人々が相次いで見舞に來た。
國へ引上げるとすれば、時機を失せぬうちにやらねばならぬといふので、加瀬博士や山下亀三郎氏とも相談の結果、看護婦同道で迎に來てくれといふ電報を吉田病院宛に打った。伊東一生氏が看護婦一名を連れて上京したのは二月十四日朝であった。伊東氏の顏を見た時は意外な様子であったが、やがて他の人を室外に退け、
「實は自分でも病氣が胃癌であることは知ってゐる。又この様子では、恢復の見込の無いことも知って居る。兎に角生命のある中に吉田に歸って、色々と整理しなければならぬから、明朝出發することにする、山下氏に汽車、汽船のことを依褚してくれ、併し自分がどんな決心で觶里に歸るかといふことに就ては家人に云ってくれるな」
と云った。芿家氏は夙に覺悟するところがあったのである。
 歸觶に先って髮も刈り髭も剃った。十五日出發するに當っても、力めて快活に挨拶した。
自動車で坂下門附近を通過する時、天子様に御別れをせねばならぬからと云って、しばらく車を止めさせ、頭を挙げて宮城の方を拜した。その様子は神々しい感じのするものであったと伊東氏は語ってゐた。
列車は午前九時發の「燕」でぁった。芿家氏はなかなか元氣で、室內まで別れに來た見送りの人々に對し、重態とは思はれぬほどの挨拶を交してゐた。同乘者は夫人の外に、神戶まで見送る山下氏とその祕書川村氏、伊柬氏と看護婦の五名であつた。芿家氏はさほどの疲勞もなく、折々煙草をふかしたりしてゐた。御殿場を通過する時、富士を見ると云つて起上つたのは、これが見納めであることを知つてゐたからであらう。富士は眞白に雪を戴いて、悠然と逭天に聳えてゐた。
京都に著いた時,ヤレヤレと一安心し、神戶まで無事に著いた時は、ひそかに神に謝したと夫人はその日記に記してゐる。芿家氏自身よりも、附添看誕の人の道中の心勞は一方ならぬものがあつたらうと思ふ。海岸通の大福旅館に少憩の後、第十三宇和岛丸に乘込んだ。出發の時刻が迫って、見送りの人々が皆下船してからも、ひとり最後まで殘ったのは山下氏であった。けれども所詮ここで別れなければならぬ。
「徹頭徹尾貴君の御世話になった、ではこれで御別れする」
と芿家氏が云った。
「彼岸樱の咲く頃には見舞に行くから、しっかり養生して待ってゐてくれ」
と山下氏は答へた。これが乳兄弟たり無二の親友だった二人の永訣の辭であった。
 船は午後九時に出帆した。海上は非常な凪であったに拘らず、船に移ってから身體の苦痛を訴へるやうになったのは、長途の汽車の疲勞が出たものであらう。
十六日午後には吉田港に著いた。桟橋には近親の人々をはじめ、吉田消防組幹部の人々と少数の有志、棧橋前の廣場には全町民が芿家氏の歸りを待受けてゐた。夫人の日記には「船より上りて見れば陸は人にて埋められ通る道さへなし、心から迎へ給へる情のありがたくて淚の袖をぬらす」と記されてゐる。擔架は消防組によつて護られ、徐行して午後八時頃、無事北小路の自邸に歸著した。
十七日は長途の疲勞が著しく見えたが、それはやがて回復した。十八日から二十一日までは比較的元氣で、過去帳を整理したり、墓所石碑のことに就て遺言したりした。墓所は喜佐方へ建てること、「無逸の墓」として、夫人の墓はその側に小さく立てることといふのであつた。
過去帳の整理は二十二日で終った。この日はまだ見舞客とも談笑したりして元氣であったが夜夫人が己むを得ざる用事で外出し、十一時頃歸ると、待ちかねた様子で「刺身の大きな切を食べたら嘔吐を催した」といふことを語つた。併しその夜はそのまま睡に陷ることが出来體が變ったのは二十三日になってからである。少しく嘔吐があり、顏色が平常と異なるのが不審に思はれたが、やがて强い痙攣が起つた。自ら注射を呼び、幾度か注射を試みた後は全く睡眠狀態に陷った。聲をかければ「アーイ」といふ返事はするけれども、意識朦朧として安らかな眠のうちに遂に大往生を遂げた。時に二月二十三日午後三時五十分。まだすることが澤山あるからと云ってゐたが、それほどの元氣もなく、歸觶後一週間餘にして不歸の客になったのであった。享年六十九歳。

***
巨星落つ!! 吉次郎の死は「官報」で二度にわたって知らされた。
官報  昭和九年二月二十六日
 帝国議会 〇衆議院 ●議員死去 愛媛縣第三區選出議員清家吉次郎ハ今月二十三日死去セリ

官報 昭和九年三月二日
 弔詞 議員清家吉次郎死去ニ付昨一日本院ハ左ノ弔詞ヲ贈レリ
 衆議院ハ議員従六位勲四等清家吉次郎君ノ長逝ヲ哀悼シ恭シク弔詞ヲ呈ス