『無逸清家吉次郎伝』終焉編 遺徳を語る五箇町村合同葬

清家氏の葬儀は三月ニ日午後一時から、氏が此世に遺した形見の一つである吉田中學校に於て行はれた。吉田町外五箇町村の合葬といふことであった。
式場に定められた校庭はすっかり掃き清められ、靈壇の中央にはその位牌(清涼院淡然明快居士)を安置し、伊達侯爵、鈴木政友會總裁、山下亀三郎氏以下東京、大阪、宇和島その他各地の有志から贈られた花輪の類がその左右を埋め盡した。參列者はー戸愛媛縣知事、山下亀三郎氏、伊達侯爵代理はじめ吉田町民、消防組、在郷軍人、吉田中學校、同女學校、同小學校生徒及び地方有志等四千餘名の多きに達し、故人の遺徳を偲ばしむるに足る盛儀であつた。
伊達宗彰侯はじめ各方面から送られた弔電は、一千餘通の多きに達した。燒香終って清家美材氏竝に葬儀執行副委員長たる山内定吉氏より、それぞれ會衆一同に對する挨拶があり、三時半葬儀は全く終了した。遺骨は直に清家家の菩提寺たる喜佐方村の安樂寺の墓地に埋葬された。
  山下亀三郎の弔辞
恭しく親友清家吉次郎君の霊に白す
君嘗て余と會談の次、余等刎頸の友にしてその孰れが先に逝くも、残る者の寂寥や果たして如何と語りしを記憶せん、而して今君は溘焉として逝き、余は殘つて具さに寂寥を嘆ずるの身となる、噫
君は交友甚だ多かりしが、余も亦同じ、然れども君と余の如き金蘭の交ある者は曷んぞ之を他に求むることを得んや、顧みれば、君と余とは僅に一歲の差を以て同村に生れ、而も余は呱々の聲を舉げたる時より、君の母堂に哺乳の恩を受け、既に君と乳兄弟の誼あり、稍長じては共に小舉校に通ひ、吉田校に學び、眞に竹馬の親友たりしが、後余は郷関を出て東部の黄塵に投じ、君は郷里に在つて師範舉校に學び、育英の職に就く、互に身を東西に隔てて、相見るの機を得ざること久しきに亙れり、其後君と親しく會して久濶を叙したるは、明治四十ニ、三年の頃にして、君が十有餘年の?育家生活を一擲し愛媛縣會議員に立候補せんとして、余の意見を徴し、余之に賛同して援助を約したる時なりしと記憶す、而して爾来、君が東都に上れば余の茅屋に宿し、神戸に來ることあれば余の野莊に泊するを常とし、相會すれば必ず酒を酌んで時事を慨し、政治を論じ、時の移るを忘れしめたり、君は二十餘年の久しきに亙り、或は吉田町長として、或は愛媛縣會議員として、或は愛媛縣會議長として、萬人の敬慕を受け郷里の自治に盡瘁し縣政に貢献したる多大の功績は郷黨の悉く認めて感謝措かざる所なり、君の如き至誠篤實にして奉公の念に強く、加ふるに高邁の識見を有して、之を行ふに斷あり勇ある者は、天下廣しと雖も多く求むべからず、洵に稀世の逸材なりと謂ふべし晩年君は郷黨に推されて衆議院議員となり、中央議政の府に列するや、君の眞價は愈々發輝し、かの政黨が軍部に威厭せられたる第六十ニ議會において、君が敢然として壇上に現はれ、荒木陛相に對して侃々諤々の論議を試みるに及び、君の名聲は頓に揚り、若し君をして十年を早く代議士たらしめば、君は必ず一黨の將となりて我が憲政の爲に貢献する所多大なりしならんとは、衆口の一致せる評言なり、茲に於て余は君に一言せざるを得ざるものあり、余は君に縷々語るに、福澤論吉先生が人材の教養に力を致して、議政壇上に送ること頗る多かりしに拘らず、己れ自らは終生代議土たらず、上院にも列せざりし深慮を索いて余の所信を告げ、専ら自重を勸めて、遂に君の大志を中央に伸ぶるの機會を逸せしめたるは、返すがえすも余の不覚にして、今願みて慚愧に堪へざる所なり、然れども余の持論は元來君の如き高潔にして識見に常む憂国の士は中央よりは寧ろ地方に緊要なりと思惟し、一縣一人にても普く全國に散在して、郷黨の指導誘掖に努力するに於ては、國家の安泰隆昌を期すべしと考へたるに出づ、君も亦同感なりしことと信じたり、君は曾て歐米を巡遊して帰來歐米獨斷と題せる一書を著したりしが余之を通讀してその達見に敬服し、啓發する所多きと共に、前述したる余の持論の決して誤に非ざるを信ぜしむるに至れり
今や我國内外多事の秋、君は幽明所を異にして在らず、余の痛惜悲嘆は豈單り斷金の友を喪ひたる私情のみに止まらんや、然りと雖も天命また如何ともすべからず、只余は茲に君に誓ふ、自今余は君の志を以て心とし、一層駑鈍に鞭ち、益々君國の爲に努力奮闘、十年の後必ず君の墓前に展して、英靈を慰むる所あるべし、君以て安らかに瞑せよ、萬感胸に迫りてて言句整はず、徒らに卑懷を抒ベて弔辭となす
昭和九年三月二日             山下亀三郎

山下氏の弔辭は最も長く清家氏の風貌を傳へて遺憾無きものであつた。山下氏字自身も之を讀むに當つて聲涙共に下るの概があり、四千の會衆をして覚えず涙を拭はしめた。數十年間莫逆の友を喪つた山下氏の心中は、餘人の想像以上のものがあつたに相違無い。